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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ピンヒール」 朝霧おと

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第44回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ピンヒール」 朝霧おと

雑踏の中、僕は前を歩く女性の足元に目がくぎづけになった。ホステスか、あるいは披露宴の女性客が履くようなピンヒールでさっそうと歩いている。

「何、見てんのよ」

有子が僕のわき腹をつつく。

「いや、あの人……」

僕とその女性との距離はどんどん離れていく。追うようにして、僕の足も速くなった。「ちょ、ちょっと待ってよ」

有子の声を無視して、僕は女性から離れまいと必死であとについた。

女性の後ろ姿に見覚えがあった。というより、スカートから出たふくらはぎ、そしてきゅっとしまった足首と細いヒールの靴に……。それがだれなのかはわからないが、思い出そうとすると、柔らかな感触や甘いにおいが僕を包み込む。

「もう、タクヤったらあ。だれなのよ、知ってる人?」

有子が苛立たしそうに僕のひじをつかむ。

「いや、知ってるか知らないかもわからない」

そんなことを言っている間にも、彼女はどんどん先を進む。僕は有子の手をにぎり「いいから、とにかくついてきて」と、足を速めた。

僕が覚えているのは、するどく先のとがった靴が、近づくと胸が満たされ、遠のくと胸がしめつけられるような感覚だけ。アスファルトを踏むコツコツという音がだんだん小さくなっていく記憶もあった。

女性は、雑居ビルの地下へと続く階段をおりようとした。

今だ、今しかない。

「あの……」

彼女は足を止め、こちらを振り向いた。目の大きな美しい人だ。

「あの、僕を知ってますか?」

有子がしきりに僕の手を引っ張り、ここから逃げようとする。

「はい?」

頭の変なヤツだと思ったのだろう。彼女の冷ややかな視線に一瞬たじろいだがあきらめなかった。

「タクヤといいます。市野タクヤ」

彼女はしばらく遠くに目をやり考えていたが「知らない」と言って背を向けた。

「本当ですか?僕はずっと昔にあなたを見たことがあるんです」

「あのねえ、私はタクヤなんて子、知らないし、会ったこともないの。人違いでしょ」

彼女は大きなため息をつきながら階段をかけおりていった。

「もう、いったいなんなのよ」

ぶつぶつと文句を言い続ける有子に「ごめん」と謝った。先ほどのヒールの音が耳に残り、せつなさでいっぱいになる。これまで経験したことのない感覚だ。

「実はさ……あの人、僕の母親じゃないかと思って。あのピンヒールの足に覚えがあったんだ」

有子が悲鳴のような声をあげた。

「バカじゃないの。ピンヒールを履いた人が母親だったら、タクヤのお母さん、世界中に山ほどいるよ。しかもタクヤにはお母さんがいるじゃん。ちょっと太った面白いお母さんが」

「いや、あれは育ての親で、さっきの人が産みの親……」

今度は本当に悲鳴を上げた。

「いやいやいやいや、ドラマの観すぎだって。ほらよくあるじゃない。幼子と母親の別れのシーンでさ、きれいだけど、はすっぱな感じの産みの親が去っていくやつ。その後ろ姿がおんなおんなしているのよね。ちょうどさっきの人みたいに」

だったら、このせつない感覚はなんだというのだ。遠い記憶にあるピンヒールはだれのものだというのだ。有子にわかるはずもなく、言ってしまったことを激しく後悔した。

僕は母親に似ていない。本当の母親がさきほどの人なら似ていないのも当然だ、なにかの事情で僕を手放さなくてはならず、今の両親が養子として僕を迎え入れてくれた。そう考えるとつじつまが合う。

ひょっとして家のどこかにあの人の写真があるかもしれない。気もそぞろで家に帰ると、押入れの奥から古いアルバムを取り出した。

僕が二歳のころだろうか。僕を抱いて笑っている女性の写真があった。細い足にピンヒール。記憶と完全に一致する。

よく見ると、それは今とは似ても似つかぬ若かりしころの母だった。ほっそりとしたその足にピンヒールがこの上なく似合っている。

母さん……。

ほっと胸をなでおろすと同時に、あれほど僕を悩ませた切ない感覚は、あっさりと消え去っていた。