阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「迷惑な座右の銘」古賀陽一
まるで竜巻が通り過ぎた後のように荒れ果てたオフィスの入り口で、青い顔をした赤城君が立ち尽くしている。赤城君は新卒で採用されて今年でまだ二年目だ。頭の回転が速く優秀なのだが、この現実を受け止めるのに時間がかかっているようだ。
「本当なんですか、その……」
「信じたくないのはわかるけど、本当よ」
オフィスの一番奥にあるデスクでパソコンの画面を睨みつけたまま、私は重い重いため息を吐き出した。社長が若い愛人と一緒に逃げたのだ。携帯の電源も当然オフにされており、連絡のとりようがない。
赤城君の顔色がモノクロに近くなった。きっと私も同じような顔をしているのだろう。
明日、大口顧客との社運をかけた大事なミーティングがある。その資料はすべて社長がまとめており、私の目の前にあるパソコンの中に保存されている。資料が保存されているフォルダはすぐに見つかった。そこまではよかったのだが。
「赤城君も心当たりないのよね」
「はい、まったく」
フォルダを開こうとすると、『PINコードを入力してください』と表示される。そして、そのコードがどうしてもわからないのだ。
私が社長の奥さんから社長が消えたとの連絡を受けたのが昨夜遅くのことだった。その直後、PINコードのメモはオフィスにあるのでヨロシクといった内容のふざけたメールが私宛に届いた。それからすぐにオフィスに向かい、必死でメモを探し回ってこの有様だ。
「とにかく、僕も探します」
赤城君は手近なところにあったファイルを猛烈な勢いで調べ始めた。私たちはこの就職難の時代にやっと得た正社員の座を失うわけにはいかないのだ。
私は赤城君より一年早くこの小さな会社に就職した。社長は敏腕だがいい加減で、当時二人いた同僚は赤城君が入社する前には辞めてしまった。それ以来、私は自分の仕事の傍ら必死で社長の手綱をとってきたのだが、詰めが甘かったようだ。
「一番近いハローワークってどこだっけ」
「先輩、諦めないでくださいよ」
赤城君が泣きそうな顔で机の引出しの中を調べている。そこはもう私が三度も調べた場所だ。そこだけでなく、この狭いオフィスの中の全てを私は調べつくした。睡眠不足と疲労と絶望で私は座り込んだ。
「ねぇ知ってる?私が入社したばかりのころ、ここに社長の愛人が乗り込んできたことがあるのよ」
もう動く気力がない。私はあらゆるオフィス用品が散らばった床に寝そべった。背中にあたるホッチキスが痛い。
「その愛人ね、私を社長の別の愛人だと思ったみたいで。思いっきり平手打ちされたの」
「それでよく辞めませんでしたね」
「社長がボーナスはずむって約束してくれたから。また就職活動するのもイヤだったし」
それはわかります、とカレンダーの裏を調べながら赤城君が苦笑した。
「でね、話はそれで終わりじゃないのよ。平手打ちの後、社長ったら私に殴り返せ!って言ってきたのよ。プロレスの応援でもしてるみたいに」
「あの社長ならありえますね」
「目には目をっていうのが社長の座右なの」
まったくひどい座右の銘もあったもんだ。
いい匂いが漂ってきた。赤城君が私の好きなコーヒーを淹れてくれたのだ。頭の横に置かれたカップから湯気が立ち上っている。それをなにげなく目で追って、白い天井を仰向けに見上げる形になった。電灯の横に、なぜか小さな画鋲が刺さっているのが見える。
目には目を。歯には歯を。ではPINには?
私は赤城君を突き飛ばす勢いで起きあがった。そのままの勢いで机によじ登り、画鋲、つまり押しピンを引き抜いた。そして、押しピンの裏に、予想通り四桁の数字が書かれているのを見つけた。
無事にPINコードを見つけ出し、抱き合って喜ぶ寸前だった私たちは再び硬直した。
コードを入力した画面に表示されたのは、ドッキリ大成功!の文字だったのだ。プリンターがひっそりと動き出し、紙を二枚吐き出した。一枚はこの騒動は社長が仕組んだドッキリで、ミーティング資料は全て社長の自宅にることを説明してあった。
そして、二枚目は一泊二日のペア温泉宿泊券だった。予約日は今週末になっている。予約名は、私と赤城君の名前だ。
私たちの関係は、とっくにバレていたのだ。
「そういえば社長ってサプライズ好きなのよね」
「こんな心臓に悪いサプライズは御免だよ」
私たちは顔を見合わせて同時に苦笑し、荒れ果てたオフィスで今度こそ抱き合った。