阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「みどりのカエル」藤村綾
「さようなら」
「さ~なら~」
光井先生はいつも生真面目にさようなら。と挨拶をしたあと、気をつけて帰ってください。と、いうけれど、最後に付属のように付け足された『気をつけー』の部分は大半の生徒は聞いていないと思う。けれど。あたしはふと、思う。さようなら。とゆう前に気をつけて帰っての件をいえばいいのではないのかとゆうことを。だって、皆一様に『さようなら』の言葉を聞いた瞬間、学校は終わっているのだから。
「ゆーいっ」
光井先生の顔をぼんやりと眺めていたら、ゆきちゃんにポンと肩を叩かれた。
「あら、あら。また光井凝視? まあ、よく飽きないね?」
「うん。そう、そう。飽きないのよ」
ゆきちゃんは、軽く絶句したあと
「重症だね。ゆいは」
苦笑交じりにクスクスと笑った。
「だってさ、素敵じゃない」
うっとりと見つめるあたしを見据えゆきちゃんは
「はいはい。てゆうかさ、クレープ食べてかない?」
と付け足した。
「クレープって? 駅の中にあるところだっけ?」
「そう、そう。あそこのクレープさ、あまり甘くなくていいの。あたしそこで夜済ますからさ」
お願い~。と、両手を合わされてしまい、断る理由もないので、いいよ、と、頷いた。
「じゃあ、いこーう」
光井先生が教室を出て行ったのを見届けてあたしとゆきちゃんも教室から出た。
高校生最後の夏。来年は社会人になるあたしたち。
「今日のしている、ゆいのピン留めさ、またまた可愛くない?」
駅の地下にあるクレープ屋さんは学生が飴にたかる蟻のように群がっていた。ちょっとだけ並んで、ゆきちゃんは苺とキウイと生クリームの入ったクレープとタピオカ入りのカフェモカを注文し、あたしは苺かき氷を頼んだ。小さな椅子に腰掛けて食べている。
ゆきちゃんの視線はあたしの前髪を留めているピンに向けられ、可愛いね、と、褒めた。
「どこで買ったの?」
ゆきちゃんも前髪が長いのでピンで留めている。どこで買ったのかってそれは誰でも訊きたくなるだろう。
あたしはいたずらに笑って前髪に留まっているピンを撫ぜた。
「これはね、どこにも売ってないの」
「え? どうゆうことなの? 売り物ではないってこと?」
生クリームを口元にべったりと貼り付けているゆきちゃんが怪訝そうに質問をしてくる。 あたしは、サクサクとかき氷の氷を崩しながら言葉を続けた。
「お母さんがね、作ってくれたのね。趣味で。それはもうたくさんあるの。猫やら犬やら、タヌキやら」
「へー。そっか。この前は猫だったからね」
で、と、ゆきちゃんは一旦言葉を区切ってあたしの頭に留まっているカエルのピン留めを触った。
「このみどりカエルがね、ゆい向けなきがするー」
「あはは。ありがとう」
どうゆう意味合いで『カエル』が似合っている定義なのだろう。ちょっとだけ複雑な心境になった。
フェルト生地に動物を模ったものを縫い合わせ綿を詰めて市販のアメピンにくっ付けるだけのシンプルなものだ。顔はビーズの目だったり、書いたものだったりと同じ顔はない。 今しているカエルのピンだって顔のバージョンは五種類もある。その中でも笑っているこのカエルはあたしの気に入りだ。
子供っぽいとか、隣の席の谷口に文句を言われたこともあるが、構いはしない。誰がなんといおうとまだ学生なのだから。
母親は六年前に癌で亡くなっている。小学六年生だったあたしは母親の命が残り少ないことを知らされていた。だからこそ、最後にわがままをいった。
「お母さんの作ったなにかが欲しいの」
母親は器用な人だったから、ピンが出来上がったとき、買ってきたのじゃ嫌よ! と、喚き叫んだほどだった。
「ゆきちゃん」 そっと名前を呼ぶ。
「明日さ、カエル三号ね、あげる」
えっ? 素っ頓狂な顔をしたゆきちゃんはあたしの方に体を向けそうっと頭から抱きしめた。甘い香りの中で。あたしは目を閉じる。