阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「困った隣人」齊藤想
孝之と千佳子の幸せな新婚生活は、新居となるマンションに引越した当日に破壊された。
問題は隣人だ。推定年齢八十歳。一人暮らしの女性。まだ荷ほどきも終わっていない時間帯に、彼女はやってきた。
「あんたねえ」
彼女は呼び鈴も鳴らさずに玄関を開けた。いきなりの仁王立ちだ。毛玉だらけでダボダボのウォーキングパンツ。このいでたちで平気に外に出られるところに、世代を感じる。
「挨拶もなしに引越しとはいい度胸じゃない。最近の若者は最低限の礼儀すらしらないんだねぇ」
「今朝越してきたばかりですが」
そう言いながら、広田孝之は用意してきた蕎麦を差し出した。
「ふん」と鼻であしらいながら、老婆は商品名を目線で探している。それなりの品だと確認すると、無造作に孝之の手からそばをふんだくった。
「こっちは年寄だから昼寝をしないと体が壊れちまう。最近の若者は夜中にテレビをつけるわ、足音をバタバタさせるわでうるさくてかなわない。騒音のせいで調子が悪くなったらアンタらのせいだ。病院代をタクシー代込みで請求するからな」
「あまりに無茶ですよ」
「ムチャもチャムも何もない。いいか、わかったな」
老婆はひととおり喚き散らすと、大きな音を立てて隣の部屋に戻っていった。妻の千佳子が心配そうに、孝之を見つめていた。
老婆の来襲は毎日のようだった。宅配ピザが来たといえば怒鳴り散らし、宅配業者が来たといえば足音で不眠症になったと小金をせびりに来た。
家にいることの多い千佳子はさらに大変だった。洗濯物をチェックしては「ハレンチ」だと千佳子を娼婦のように面罵し、ポストの中身を見ては「カタログショッピングなんて安物買いの銭失い」と言いふらす。
最悪なのは、夫婦に金がないことだった。結婚式と新婚旅行で使い果たし、引越そうにもその資金がない。頼れる親戚もいない。
それに、近隣相場と比べてこの部屋は格安なのだ。立地も設備もよく通勤にも便利。その好条件が落とし穴だった。この部屋が格安である理由を、もっと探るべきだった。いまさら売りに出しても買手はつかないだろう。孝之が購入したときだって、前所有者から三年のブランクがあったのだ。
新生活が始まって二か月がたった。
老婆の攻撃は悪化した。最近は壁に聴診器を当てて部屋の様子を伺っているらしく、孝之に対しても「若いからお盛んなのねえ」とか「くだらないバラエティばかり見ているんじゃない」とか口にする。顔を見せれば文句か嫌味だ。
千佳子は精神的におかしくなり、ノイローゼの気配が出ている。
もう限界だった。老婆を殺すしかない。幸いなことに、老婆には親しい友人も親戚もいない。千佳子に聞いても、あの部屋にだれかが訪れたような形跡は見当たらない。死んでもだれも気が付かないだろう。あの性格からすれば当然だ。
季節は冬。老婆は小柄で、しわは深く、まるで固く絞って乾かしたぞうきんのような顔している。窓を開けて風通しをよくしておけば、死体は腐敗せずに死蝋化するかもしれない。いわゆる天然のミイラだ。そうなれば腐乱臭も発生しないので、何年も発見されなくてもおかしくない。
昼間の老婆は寝ていることが多い。
千佳子に心配をかけないよう、孝之は出勤をするふりして玄関を出た。漫画喫茶で適当に時間をつぶし、マンションに戻る。
このマンションは、昼間はほとんど無人になる。千佳子もアルバイトに出かけている。殺人を犯すにはぴったりだ。
孝之は指紋をつけないように手袋を二重にはめ、老婆の部屋に侵入した。老婆はカギをかけないので侵入するのは容易だ。
案の定、老婆はコタツの中で寝ていた。どうやら書き物をしていたようで、書きかけの便せんが置いてある。そのタイトルに孝之は興味を覚えた。遺言書とある。その内容は、なんと遺産の全てを隣りの夫婦に譲るとある。
遺書は続く。「親しい友人も親戚もなく、文句を言うだけが生甲斐のこの私の口撃に我慢してくれて感謝する。千佳子さんには悪いことをした。相続人がいないばかりに財産を国に没収されるのは悔しいので、広田家にくれてやる。いつまでも隣にいてくれ」
孝之はなにもせず老婆の部屋を出た。
あの老婆だから、何度も殺されかけたことあるだろう。これが老婆の作戦かもしれない。それでも、もう少しだけ、我慢してみようという気持ちになった。