阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「オブザーバー」朝霧おと
隣にようやく新しい家が完成した。どんな家族がやってくるのだろうと、私はその日を心待ちにしていた。
大きなトラックが到着し、続いて赤いコンパクトカーが家の前に止まった。甲高い子どもたちの声、奥さんとだんなさんのはずむ声、幸せな仲良し家族のようだ。以前は老人が長い間住んでいたが、最後は借金取りから逃げるようにして消えてしまった。正直気分が悪かった。
この家族ならきっと間違いないだろう。お人好しのだんなさん、しっかりものの奥さん、そして生意気な息子と甘えん坊の娘、典型的な家族構成だ。私はほほえましい思いで彼らの暮らしぶりを見させてもらった。
キャッキャッと騒ぐ子どもの声は、成長とともにいつしかなくなり、声変わりした息子の怒鳴り声が、窓を通して聞こえてくるようになった。
「うるせー、ババア死ね!」
奥さんの悲鳴と泣き叫ぶ声に、私は何度起こされたかわからない。
「だれもが通る道だから、少しの辛抱ですよ」と奥さんに言ってあげたかった。
娘は派手なメイクをし、髪を染め、元の顔がわからないほどに変貌していた。そのころの奥さんの顔ときたら、まるで死人のようで励ましようもなかった。
そんな子どもたちだったが、それぞれ社会人と大学生になって家を出て行った。
「ほらね、あんなに悩んでいたのがうそのようでしょう。立派に成長したのは、他でもない、奥さんのおかげですよ」
言葉にこそ出さなかったが、私は胸の奥でそっとつぶやいた。
夫婦ふたりだけの暮らしが平穏に続くのかと思ったらそうではなかった。だんなさんの浮気相手が家に押しかけてきて、パトカーが来るほどのさわぎになったのだ。
やっと解決したと思ったら、今度は奥さんの不倫。だんなさんの浮気とは違い、こちらはかなり真剣な様子だった。
「離婚して!」と言う奥さんのヒステリックな声が夜ごと聞こえてきて、私の眠りを妨げた。
それでも長年つれそった夫婦だ。離婚の危機を乗り越え、やっと静かな暮らしに戻ることができたのは、ふたりが年金暮らしなったころだった。
その後、何年もたたないうちに、娘が離婚し、子どもふたりを連れて戻ってきたものだから、奥さんとだんなさんはうれしいやら悲しいやら。再びにぎやかな家族になって、私は温かな気持ちで見させてもらっていた。
やがて、だんなさん、奥さんと続いて亡くなり、娘とその子どもだけになってしまった。ここで、再びもめごとが勃発した。
遺産相続で兄との争いが始まったのだ。家を売り、それをふたりで分けるべきだという兄と、居住権があるから出て行かないという妹とで、激しい言い争いが起こったのだ。どんな結末になったのかは知らないが、気づくと隣にはだれもいなくなっていた。
また寂しい毎日が始まる。私は過ぎ去った日々を懐かしく思い出しながら、兄妹、そしてその子どもたちの幸せを願った。
「うわあ、かなり古いね。でもレトロな感じがいいわ」
「リフォーム代、高くつきそうだね。前面にテラス席を持ってきたらどうだろう。おしゃれになるよ」
車が停まり、降りてきたのは中年の夫婦だった。店でも始めるつもりなのだろうか。
「前はどんな人が住んでいたのかな。夜逃げなんてしていたらいやだな」
ふいに奥さんと私の目が合った。奥さんはつかつかと私の元に近寄り、そっと耳打ちをした。
「あなた、知っているんでしょ。教えてよ」
私はしどろもどろになり、奥さんから目をそらすのがやっとだった。そして奥さんはまぶしそうに私を見上げた。
「きれいねえ、ほんときれい」
いや、それほどでも……。
あまりにほめられて私は恐縮するばかりだ。身の置き所がなかった。
私がだれかに注目されるのは何年ぶりだろう。五十年? 百年?
いやそんなことはない。あのときの娘は私の赤い落としものを、うれしそうに拾い集めていたではないか、あのときの奥さんは私のそばで涙をぬぐっていたではないか、そしてだんなさんの愛人は私を盾にして隠れていたではないか。
「このケヤキ、なんでもお見通しなんでしょうね」
新しいドラマの始まりだった。私は久しぶりに胸の高鳴りを抑えきれずにいた。