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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ビリケンさん」有村まどか

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作文・エッセイ
結果発表
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第41回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ビリケンさん」有村まどか

人を見るとき、まず手から見てしまうのは、絶対にビリケンさんのせいなのだ。

俺がちんちくりんのこまいガキのころ。親父とお袋が離婚した、暑い暑い夏。兵庫に越した。その日、お袋に連れられ、隣の長屋に引っ越し蕎麦を渡しに行くと、そこのおっちゃんが無言で差し出してきた左手には、薬指と小指がなかったのである。ステテコ一丁のおっちゃんは、四十絡み。夏の熱気と蝉の声に晒された逞しい肩口から背中には、ドでかい極彩色の紋々をしょっていた。

「裕、あのおっちゃんと関わったらあかんからな。絶対やで。」

家に帰るとお袋は諭した。迷わず頷いた。直感でわかったのだ。あのおっちゃんはごっつ怖い人に決まっとる。が、何と言っても隣人だ。会わないで済むわけもなく、何度も顔だけ見る日々が続いた。そうしているうちに、気付いた。なんや、あのおっちゃん、昔、オカンとオトンと行った通天閣のビリケンさんによう似とるわ。そんなわけで、俺は、心の中で密かにおっちゃんをビリケンさんと呼ぶことにしたのである。

新しい住処の長屋は阿呆ほど古かったもんだから、ある日、風呂が壊れた。生憎、修理屋は捕まらず、夏の陽気も続く事態に音を上げた俺とお袋が近所の、これまた古い銭湯に駆け込むと、番頭のおばちゃんが俺を見て、顎をしゃくった。

「あんちゃん。もう大きいんやから、男湯に入りや。」

うろたえた。家以外の風呂は初めて、男風呂に入る作法を教えてくれる人間もいない。でも、釘を刺されてしまった俺は、仕方なく1人で男湯に乗り込み、周囲を見回しながら恐る恐る湯船に足を付けようとした。その瞬間。

「おい、坊主ぅ! ここは家の風呂とちゃうねんからケツと前洗ってから入れやぁ!」

ダミ声の怒号。初めて聞くビリケンさんの声が風呂場にぐわんと響いたとき、下半身のモノがぞぞっと縮み上がり、自分は男なんやと思い知った俺は、急いで言われたようにして、目立たぬよう、一番端からそろり風呂に体を沈めた。すると、他の人とでかい声で喋っていたビリケンさんが、海坊主みたいに湯をかき分けてこっちに来て、話しかけてきた。

「自分、1人なんか。」

おどおど頷くと、ほう、感心やな、と言ったきり、喋らなくなった。その沈黙とビリケンさんの赤くなっている肩の紋々に変な汗をかく。何か話さな。子供心にその一心、焦っていたら、

「……その指、お湯につけて痛ないの?」

なんて、口を滑らせてしまい、俺は青くなった。ヤバい、やってもうた。しかし、ビリケンさんは気分を害した様子もなく、豪快に笑った。

「うはは。別に痛ないで。証拠に後で自分の頭洗ったるわ。自分、急いでてまだ洗ってないやろ。」

それから、本当に髪を洗ってもらったのだが、ビリケンさんの洗髪は、お袋よりだいぶ力が強く、そして、右手より指のない左手の方がわしゃわしゃとよく動いた。

次にビリケンさんと話したのは、寒い日の早朝だった。1995年1月17日。阪神大震災の日。出し抜け、世界が揺れ始め、次第に勢いを増すと、究極にボロい長屋は哀れ、あっという間に倒壊した。逃げ遅れた俺は、瓦礫に閉じ込められたが、まだ死ぬということを理解していなかったからだろう。恐怖は感じなかった。それでも、目の前のガラクタ全部切り裂いて、暗闇でも分かるほどに汚れたビリケンさんの必死の形相と、荒い息で上下する彼の肩の後ろに息を飲むくらいたくさんの、まぶしい星がぎらんぎらんと光っているのを見たときには、流石に、ああ、生きてんねやなぁ、と思った。先に助けられ、涙と鼻水でひどい顔をしたお袋は、不思議なことにほぼ無傷の俺を抱き締めて、何度もビリケンさんにお礼を言っていた。

明るくなってくると、ビリケンさんは、仲間の様子を見に行くと言った。それを追いかけ、悪い夢の世界かと思うくらい、そこかしこ破壊され、もうもうとした黒い煙が立ち上る往来に飛び出した。

「助けてくれてありがとうな!」

大声で叫ぶと、ビリケンさんは戻ってきて、土で汚れた左の拳で俺の胸をこつんと叩いた。

「なぁ、坊主。何がなくてもよ、ここがしっかりしとれば、大事なもんは守れるんやで。よう覚えとき。」

あれからビリケンさんには会っていない。でも、今でも通天閣の近くを通ると、あの残酷な景色を堂々と薙ぐでかい背中を懐かしく思い出し、名物の擦り凹んだ足の裏ではなく、五本揃ったビリケンさんの左手を撫でてしまう俺がいる。