阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「袖触れ合うも」伊予柑
ギィ、ギィ、と船底が軋む音で元次は目を覚ました。
古びた天井には裸電球が一つ、振り子のように揺れている。部屋の中のあらゆるものは、その光に翻弄されながら影を伸ばしては縮めて、輪郭を曖昧にした。
「おはようございます」
起き上がると、隣から若い男の声が届いた。
元次はじろりと声の方向を睨んだが、返事はしない。知らない男だ。名は、名乗ったかもしれない。
狭い部屋だった。四方を鉄の壁に囲まれた閉塞感は、四つのベッドが並ぶと更に増した。人が一人やっと通れる隙間がベッドとベッドの間に辛うじてあるだけで、それらが気まぐれな灯りに照らされては、見えなくなる。
「元次さんはどうしてこの船に?」
若い男は元次の視線を気にすることなく、話し続けた。そのまま無視してもよかったが、これから続く長い船旅の暇潰しにでもなれば、と元次は口を開いた。
「人を殺したんだ」
相手は驚いたように少し黙り込んだ後、安堵したように微笑んだ。
「奇遇ですね、私もですよ」
男の返答に、元次は乗りのいいヤツだ、と深くは考えなかった。
「何人ほど?」
「一人だよ」
「そうですか」
口元の笑みを消して伏せられた目には、すぐに失望の色が浮かんだ。
「そういうあんたは?」
「数えきれないほど」
「戦争にでも行ったのか」
「戦場でも」
元次は揺れる影に翻弄されながらも、すぐ近くにいるはずの相手をよく見ようと目を凝らした。若いが、少なくとも軍人には見えない。視線を外せば五秒で忘れてしまいそうな存在感の薄さは、戦場で生き残れそうではあるが。
「たった一人なら、さぞ心に残ったことでしょう」
元次は少し気分を害した。
「別になんてことはない。酔った勢いだ」
「そうですか。では顔も覚えていないでしょうね」
「どうかな。あんたみたいな顔だったかも」
若い男は低く笑った。
「なあ、そんなに沢山どうやって殺したんだ?」
好奇心を滲ませて元次はそう訊いていた。
「やってみせましょうか?」
その時、船が一際大きく揺れて、若い男の顔に濃い影を落とした。元次は急に寒気がして、薄い毛布を手繰り寄せた。
「誰を殺すんだ?」
「私の隣で眠っていた男なんかどうです?」
まさか自分のことを指しているのか、と警戒したが、男は元次とは反対のベッドを指さしていた。乗船してすぐに見た同室の男達の顔が思い浮かぶ。一人はつまらなそうな眼鏡の男、もう一人は太り気味のネズミのような男。
「少しふうっと吹くだけなんですよ。そうしたら、はい、おしまい。誰でもいいんです。金持ちも貧乏人も、若くても年寄りでも、みな平等です」
「へえ、そんな簡単に出来るもんなのかい。そういうことなら、面白そうじゃないか。やってみなよ」
元次は意地悪く男に迫った。寒気はそのままだったが、気にはならなかった。
「止めないんですか?」
「あんたがやるって言ったんだろ」
「でもね、よく言うでしょ。『汝の隣人を愛せよ』って」
「どうでもいいね、そんなもの」
不意に、ギィギィと音を立てていた船底から突然バリバリと耳をつんざく轟音が響いた。
と同時にドアが慌ただしく開き、眼鏡をかけた男が飛び込んでくる。たった今どうでもいいと、元次が切り捨てた男。
「なんだ今の音」
若い男が笑ったような気がして振り返ると、ますます激しくなる揺れに合わせて影は追いつけないほど激しくその形を変えて、元次から若い男を隠した。
「そもそも、みんな――なんですけどね」
若い男は堪えきれずとうとう肩を震わせて大いに笑い出した。耳障りな笑い方だった。だから昔、瓶で殴ってやったんだ。
「なあ、あんた」
片手を上げて男は元次の言葉を遮ると、口をすぼめて「ふうっとね」と先ほどの言葉を繰り返した。
それは蝋燭の火を吹き消す仕草に似ていた。
「ふうっと吹くだけでいいんですよ」
そして灯りが消え、暗闇が広がった。