阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「隣の女」石黒みなみ
「こんにちは」
お勝手口で声がした。隣のりっちゃんだ。どうぞ、という前にずかずかと上がり込んでくる。いつものことだ。
「ごぼうとさんま、圧力鍋で煮たの。骨まで柔らかいから体にいいわよ。一人だとろくなもの、食べないでしょ」
さんまはあまり好きじゃないんだけど、と言おうとしたが、りっちゃんはもう勝手に冷蔵庫を開けて、持ってきたタッパーを入れてしまった。まあ、好きでなくても食べるかもしれない。いや、たぶん食べる。
「またテレビ見てるの。座ってばかりじゃダメよ。ちょっとは体動かさなきゃ」
そういうりっちゃんも私のそばにどっかりとすわり
「この女優さん、また離婚なのねえ」
などといい始める。たわいもない話でも、一人でいるより明るい気持ちにはなれる。
いつの頃からか忘れたが、りっちゃんはうちによく来るようになった。子ども達が独立したあと夫が亡くなり、一人でなんとかやっていたつもりだが、この頃何事も億劫になってきた。りっちゃんがしょちゅうのぞいてくれるのは、うっとおしいこともあるけれど、助かるところもある。
昔からずっとだんなさんと二人で隣に住んでいるはずだが、よく考えるとりつこさんなのか、りつさんなのかは知らない。ただ、りっちゃんと呼んできた。まだ若い夫や幼い子どもたちが、りっちゃんりっちゃんと呼んでいた声が今も頭の中で響く。
そんなかわいいりっちゃんだったはずだが、この頃白髪が増えた。聞くと前は染めていたのだが、もう面倒でやめたのだという。若いような思っていたが、案外おばあさんなのだ。
そういえば、あれは昨日だったか。ベッドの下の埃が気になっていて、ずっと掃除をしたいと思っていた。ちょうどりっちゃんがやってきたので
「ちょっとこのベッド動かしてくれない。掃除機は私がかけるから」
と頼むと突然怒り出した。
「私だってもう年で腰が痛いの。埃なんてほっときゃいいのよ。うちなんて埃だらけよ」
この頃りっちゃんはちょっとおかしい。この間も、ふと庭を見たら、知らない男が植木を切っている。慌てて止めに行くと、「隣の人に頼まれた」というではないか。りっちゃんに文句を言いに行くと
「あのしだれ桃、道路にはみ出して近所迷惑。お向かいの池田さんも怒ってたでしょ。あちこち葉っぱが落ちて溝掃除が大変なのよ。うちに植木屋さんがくるついでに切るって話になったじゃない」
なんていうのだ。ちっとも覚えがない。りっちゃんの思い込みにちがいない。第一あれは死んだ夫が大切にしていたしだれ桃だ。切るなんて私が言うはずがない。道路にはみだしたってかまうものか。
台所の床に積んでおいた古新聞を、勝手に処分してしまったこともある。床に物があるとつまずいて危ないからというのだ。
いつ読み返すかわからないから全部置いてあるのだ。窓を拭いたり何か包んだりと役に立つこともあるかもしれない。私はつまずいたりしないし、余計なお世話よというと、りっちゃんは突然怒鳴った。
「こっちは心配して言ってるんだからねっ!」
高齢になると、だんだん自分中心になり、思い通りにならないと怒り出す人が増えているらしい。りっちゃんはお年寄りなのだ。淋しいからうちにおかずを持ってきて、あがりこんで勝手なことをするのだ。わかってあげないといけない。
「ねえ、りっちゃん」
私はできるだけ優しい口調で話しかけた。テレビを見ていたりっちゃんはこちらを向いてきっとした目つきで私を見た。
「いいかげんにしてよ! 私はりっちゃんじゃないから」
えっ、じゃあ、この人は誰なの。
「お母さん、何度言ったらわかるの。私、ミエコよ。りっちゃんは、昔飼ってたチワワでしょ。思い出してよ!」
目の前のおばあさんは涙ぐんでいる。
思い出した、りっちゃんがうちに来た日。ミエコ、もらってきたよ、チワワのリクちゃん。わあ、かわいい、リクちゃん、リクちゃん、りっちゃんだね。そうか、りっちゃん、りっちゃん。上の子ども達もはしゃいでいる。りっちゃん、りっちゃん。大勢の声が響く。幼いミエコが子犬を抱きあげる。
私はもちろんミエコとは似ても似つかない隣の老女をしみじみと眺めた。そうだ、この人は確か昔から泣き虫だった。慰めてあげなきゃ。いつもそうしていたはずだ。ねえ、とと呼びかけてから言葉に詰まる。この隣の人は何という名前だっただろう。