阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「女魚」西田美波
「俺さあ、ついに飼いはじめたんだよ」
青空の下、横浜赤レンガ倉庫で催されているオクトーバーフェスト会場はひとでごった返していた。ビールで紅く染まった頬をにたにたと緩めた友人が、周囲の様子を少しばかり窺い、おもむろに切り出した。
「飼いはじめたってなに、猫?」
「いんや、女魚」
「……うっそ、まじかよ」
女魚とは、ここ数年ひそかなブームになっている、書いて字のごとく女の姿かたちをした魚だ。卵の間は特殊な水の中で細胞分裂を繰り返し、成熟した女となって孵化する。普通の魚の稚魚とはじめのうちは大きさが変わらないそれが水面から顔を出すようになったら水槽から出す合図で、やがて人間の女と変わらない背丈にまでなる。
「恋人が全っっっ然できなくても別に気にしてなかったはずなんだけどさ、ひょっとしてこのまま一生一人かなって考えたら、なんだろな、寂しさが、急にもうしんどくて」
そう、女魚――もしくは男魚。成熟した男の姿――を飼うひとはたいてい人恋しさ埋めるためにそれを飼いはじめる。家族、恋人、友人。どんな関係を築くかは人それぞれだ。
「いいぞ女魚。金魚とか熱帯魚はばかみたいに高いから俺は鮎にしたんだけど、あれ、香魚と呼ばれるだけあるな。色気がやばい」
「へえ、そんなに」
「まじやばいから。寿命も大体一年で、初めて飼うひとにお薦めだってさ。お前もどう?」
だから、というわけでないけれど、彼女が待っていると会場を出るなり友人にひとり取り残され、適当にぶらりうろついていた俺は、気付けば魚ショップに足を踏み入れていた。
卵が沈んでいるのであろう水槽が並んでいた。それぞれ魚の名前が直接水槽にマジックペンで書かれているのがなんだか可笑しい。
「飼う?」
店員の女が、「鮎」と書かれた水槽の前に立つ俺に訊ねた。
「初めて? なら水槽も買わなきゃよ。餌は一日三回。最初は専用の餌ね。水槽でたら普通の食事。人間と一緒。分かる?」
「いやでも、俺はべつに……」
「いい女なるよ」
にやり、と店員が笑う。大学時代に付き合っていた彼女と別れたきり、恋人はもうずっといない。女友達もおらず、女の人にどうアプローチすればいいのかすらとうに忘れてしまった。さきほどの友人の言葉が蘇る――このまま一生一人かなって考えたら……。
一人暮らしの部屋に突然現れた水槽はどこか奇妙だった。卵が孵ったのは一週間後。それから一ヶ月経ってついに水面から顔を出すようになった頃には、体長は二十センチ近くになっていた。
丁寧に身体を拭き、おもちゃの人形用の服を着せた。成長のスピードが早くすぐにそれでは追いつかなくなり、赤ちゃん用の服を着せ、子ども用の服を買いあさり、とうとうその成熟にふさわしい服を身に纏うようになった彼女は、ひとりの女そのものだった。
鮎は植物食を口にするらしいけれど、彼女はいつも美味しそうに肉を頬張る。日中は大人しく、夜になるとぺたりぺたりと俺に触れ、小さな目で愛らしく俺を見つめてくる。友人が言った「色気」が具体的にどのようなものかはわからないものの、十分魅力的に映った。
俺たちは恋人になった。
女魚は口をきくことはできない。それでも愛は伝わってくる。そう遠くないうちに終わりが来る――死ぬと魚の姿になる――と知っているから、俺は惜しみなく愛を注ぎ続けた。
ただ、どうやら彼女は少し長生きらしい。孵化して三年以上の月日が経った。友人は相変わらず女魚を飼い続け、飼っている鮎はこれで四代目だ。
俺はと言えば、実はつい最近人間の女性に恋をした。その人には当然鮎のことは話しておらず、部屋に連れてきたこともない。
ある日彼女が朝からひどく興奮していて、なだめるように身体を重ねた。夕陽を浴びてベッドでうつらうつらしていたところを突然、どん、と大きな揺れが建物を襲った。咄嗟に彼女を庇うように腕を伸ばし、その一方で、好きなひとのことが心配になる。本当は今すぐにでもあのひとに会いたい。
けれど相変わらず彼女は元気で、夜になると絡みついてくる。久しぶりに中華街を訪れたとき、思い立って鮎を買った店へ向かった。
「あの、以前ここで鮎を買ったんですけど」
と、「鮎」の字を指さし話す俺に、あの日とは別の中国人店員が怪訝そうに首を傾げた。
「アユ? シャンユーのこと?」
「シャンユー?」
「香る魚でシャンユーね。中国ではそう言う。でもそれ、アユじゃないよ、ニィェンね」
「えっと、それは日本語で……」