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芥川賞・直木賞 作家志望者必読!

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 2023年7月19日、2023年上半期(第169回)芥川賞は、市川沙央『ハンチバック』に、直木賞は垣根涼介『極楽征夷大将軍』と永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』に決まった。
 最近はさすがに「芥川賞に応募するにはどうすればいいですか」という問い合わせはないが、よくよく考えると芥川賞・直木賞のことについてよく知らないという人も少なくないだろう。
 そこで今回は芥川賞・直木賞をフィーチャーする! 受賞したい方はぜひ!

当初は生原稿もOKだった芥川賞・直木賞

 芥川賞・直木賞(正確には「芥川龍之介賞・直木三十五賞」)は、昭和10年、両名の親友で文豪の菊池寛によって創設された。

 創設にあたっては宣伝に力を入れたらしい。端的に言うと、記者、編集者を招いて接待したということ。しかし、この目論みは外れた。「文学賞の創設」に新聞各社はあまりニュースバリューを感じなかったようなのだ。

「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した。(中略)むろん、芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。その事は最初から声明している。しかし、半分は芥川直木と云う相当な文学者の文名を顕彰すると同時に、新進作家の擡頭を助けようと云う公正な気持ちからやっているのである。その半分の気持から云っても、新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいゝと思う。」(文藝春秋「話の屑籠」)

 昭和の頃はこうした会見を兼ねたパーティーがよくあった。酒と料理が振る舞われ、帰り際にお土産まである。そのうえ手提げの底に「お車代」と称してお金が入っている。「記事にしてね、でも、悪く書かないでね」と暗にお願いしているわけだ。
 文藝春秋がそれをしたかどうかは不明だが、昭和の終わり頃でも普通によくあることだったので、大々的なイベントであればそれぐらいやってもおかしくはないだろう。

 ちなみに、芥川賞・直木賞も賞創設当初は「生原稿も可」だった。戦前は出版点数が少なく、自費出版物や素人の未発表作品にも埋もれた秀作が多く、商業出版された小説だけではいいものが集まらなかったのかもしれない。しかし、戦後の出版流通の発展によってこの規定は不要となっていった。

戦前は意外や意外、さほど有名な賞でもなかった

 芥川賞というと、第1回のときに、太宰治が「逆行」で候補に入ったこと、およびそれが落選したことを思い出す人が多いだろう。
 第1回受賞作は、昭和10年8月、石川達三『蒼氓』に決まり、その後、「文藝春秋」9月号に、川端康成による太宰治作品に対する講評が載る。それがこれ。

「なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛っているが、私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった。」

「道化の華」も予選のときに参考作品に上がっているが、川端康成は私生活(自殺未遂と薬物中毒)が影響し、素直に才能が発揮されていないと感じたようだ。
 これに対し、太宰は激怒し、「川端康成へ」と題する文章にこう書いている。

「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思いをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。そうも思った。大悪党だと思った。」

 いやあ、やばいね。今だったら殺人予告で逮捕だね。

 その後、太宰は選考委員の佐藤春夫に、「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます」「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい」と書いている。
 こんな手紙を書くということは、芥川賞・直木賞は相当の権威だったのだろうと思ってしまうが、太宰が芥川賞を欲したのは賞金の500円だった。盲腸炎から腹膜炎を併発し、鎮痛剤のパビナール中毒になって市販薬を買う金が必要になったのは不運だったが、東大を卒業できず、実家からの仕送りが途絶えたのはいわば自業自得。
 そんなとき、芥川賞・直木賞のことを知った。500円というのは、「本当に精進する気の人なら相当期間食って書いていられる」という額で、菊池寛としては賞金で安定した生活を手に入れ、それで二作目、三作目を書いてほしいという意図だったが、太宰にとっては喉から手が出るほど欲しい生活費だった。

 昭和30年までは、芥川賞・直木賞は今ほど著名な賞でも権威ある賞でもなく、文壇内では知られた賞でも世間一般には無名な賞であり、影響力もあまりなかったということについては証言がある。
 昭和29年度上半期に芥川賞を受賞した吉行淳之介は、以下のように言っている。

「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった。」

 また、翌昭和30年度上半期に芥川賞を受賞した遠藤周作もこう言っている。

「授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なもの。」


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