第6回W選考委員版「小説でもどうぞ」選外佳作 父の娘 西森有
第6回結果発表
課 題
家族
※応募数289編
選外佳作
父の娘
西森有
父の娘
西森有
「おーい、もう行くぞ」
玄関から父の声がする。ほんと、せっかちなんだから。私はUVカットのパーカーを引っ掛けながら、慌てて階段を下りる。今日から夕方のウォーキングについて行かせて欲しいと、父に頼んだのだ。
父とふたりで歩き出した。自然と前後一列になり、私は父の背中を追う形になる。三月に入って日が長くなってきたものの、夕方の風は冷たい。今年還暦のくせに、父の歩くペースは思いのほか速くて、ついて行くのでやっとだ。こちとらピチピチの三十歳。ペース落として、なんて言えない。たとえ明日の筋肉痛が確定しようとも。上がる息。それを悟られないよう、息を整え追いかける。
一体どこまで行くのだろう。父が一時間ほど歩くことは知っている。腕時計を見ると、歩いてまだ十五分ほど。交差点の角に、通っていた小学校が見えた。下校時間をとうに過ぎているから、教室に明かりは見えない。
小五の春、両親が離婚し、母が家を出て行った。母とはそれっきりだ。看護師だった母は、もともとあまり家にいなかった。家事はほぼ父がやっていたから、母がいなくなったとて生活に困ることはない。それでも家族がひとりいなくなる、というのは無傷ではいられないのだった。母の化粧台や、ブラシや、私に似合うと選んでくれた帽子や。そんなものたちが、じわりじわりと母の不在を主張する。日に日に埃を被っていくのは、ものなのか、私の心なのか。
ある日曜日。私がそれらをゴミ袋に放り込んでいたら、父が顔を出した。父は何も言わずに化粧台を庭に放り出し、ノコギリで細かく刻み始めた。ギコギコ。バキッ。ギコギコ。私は庭から聞こえるその音を聞きながら、家中の母の残骸を葬っていく。すべて終わるころにはすっかり日が暮れていた。
「ここで渡るぞ」
父が横断歩道で立ち止まる。中学時代、自転車を押して渡っていた横断歩道だ。ふと、父のふくらはぎに目がいく。父の右ふくらはぎには、縦八センチほどの古い傷跡がある。
小六の春休み。父は根気強く自転車の練習に付き合ってくれた。だいたい乗れるようになってきて、手を離していいよ、と言う私。夢中で自転車をこいで、道端にとめられた車と正面衝突しそうになった。危ない――。目をつむる。私は自転車ごと横に倒れた。
「大丈夫か?」
父の声で体を起こす。私はヘルメットとサポーターのおかげでケガはない。傍らで、父が片膝を上げて倒れていた。どうやら後ろからスライディングし、正面衝突しないよう、自転車の軌道を変えてくれたらしい。サドルで右ふくらはぎを切ったようだ。赤黒い線から、だらだらと滴り落ちる血。痛みに顔を歪める父。私は慌ててご近所さんの家へ駆け込み、父の手当てを頼んだ。
「痛いよね」
べそをかきながら青ざめる私に、
「あぁ、痛い」
と顔を歪める父。本格的に泣き出しそうになった私の頭に手を置き、
「でも、お前がケガするよりは痛くないな」
そう言って笑った。
その後、私は中学・高校を卒業して、県外の短大へ。地元の有名企業で働くことが決まった時、父はおおいに喜び、就職祝いにダイヤのネックレスをくれた。私は初任給で、父を回らない寿司屋に連れて行った。父が酔っ払って玄関でパンツ一丁になっていたときはめちゃくちゃ怒ったし、私が友達と行くなんて嘘をついて彼氏と旅行したことがバレたときはめちゃくちゃ怒られた。どんなに喧嘩しても、翌日には何もなかったみたいに「よぉ」と声を掛けてくる。そんな父のおおらかさに、どれだけ救われたことだろう。
「よし、ここで折り返しだ」
坂道の中間地点にあるカーブミラーを掴んで、父が振り返った。いつの間にか差が広がっていて、ぜぇぜぇ息をついてようやく追いつく。父と一緒に、登って来た道を眺めた。
こんなに。こんなに、歩いて来たんだ。
建物や新しく創られた鉄橋で半分ほど隠れてしまっているけれど、先の先には海が見えた。橙と紫の混じった夕日を背に、海を眺める。
つらいこと、嬉しいこと、いろんなことがあった。それでもなんとかここまで歩いてこられたのは、父の背中を見て歩いていたからだ。
「還暦のくせに、やるな、お主」
上がった息を、憎まれ口で誤魔化した。
「まだまだくたばれんからな。帰るぞ」
また、父の背中を追いかける。父とのウォーキングは、その後、三か月続いた。
そして今私は、一歩一歩、父と肩を並べて歩いている。向かう先には、白いタキシード姿の私の夫。一歩、また一歩。こんな時でも一歩が速い父。ほんと、せっかちなんだから。
もう少しお父さんの娘でいさせてよ。
(了)