すべての小説にミステリーを2:小説の視点って何? 何が問題なの?


フェアプレイは視点の統一から
東川篤哉の『密室の鍵貸します』の中に、こんな一節があります。
それじゃ、いったい戸村流平の視点や刑事の視点を自由に使い分けることができるおまえという存在はいったい何様なのだ? そんな読者の疑問が聞こえてきそうだ。
この物語の語り手は誰なのだ?
その問いに対する答えは、何種類か考えられる。この本の背表紙に偉そうに名を掲げている「東川なにがし」とかいう人物が語り手であると考えていただいても結構だし、登場人物のなかの誰かと考えてもらってもいいだろう。あるいはミステリ世界でよくいわれるところの《神の視点》という考え方もある。(東川篤哉『密室の鍵貸します』)
形式について作者が作中で補足するというのも変ですし、《神の視点》はミステリーだけの用語ではありませんから誤りと言っていいと思いますが、これはデビュー作、つまりアマチュア時代に書かれたものですから、視点についてあれこれ悩んだ揚げ句、そのことについてつい書いてしまったというところでしょうか。
ただ、そう思ってしまうのも無理もないほど、ミステリーの世界では視点についてうるさく言われます。それはミステリーには「フェアプレイ」という考え方があるからです。
前出の「ノックスの十戒」にも似たことが書かれていますが、「ヴァン・ダインの二十則」(の2)にはこうあります。
作中の犯人がしかけるトリック以外に、作者が読者をペテンにかけるような記述をしてはいけない。
(藤原宰太郎『真夜中のミステリー読本』)
叙述トリックは別として、視点に関する理解がないと、最初に神の視点で「和佳は男性だ」と書き、その後、「犯人は女性」と断定したうえで、最後に「犯人は、本当は女性だった和佳」と書くようなアンフェアをしてしまいます。
探偵の視点で書いて、「和佳を『かずよし』と読んでしまった結果、和佳を男性だと思ってしまったが、実は『わか』だった」というのであればいいです。しかし、客観的な神の視点で「和佳は男性だ」と言われれば読者はそう思ってしまいますから、あとで「女性だった」と撤回されても納得できません。
こうした事情から、ミステリーやミステリーの要素のある小説を書くときには、視点をブラさないことは必須の条件になります。
神の視点は前世紀の遺物
文芸用語の「視点」とは、誰の目をカメラ代わりにして語っているかということです。
では、誰の目かを基準に、視点を二つに分けてみましょう。
- 神の視点(作者視点)
- 人物視点
1は、作中の人物を通した書き方ではなく、作者による説明です。
或日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れております。極楽は丁度朝なのでございましょう。
(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)
この書き方から察するに、視点人物はお釈迦様ではありません。芥川本人、もしくは芥川と同一と言っていい、作中にはいない誰かということになります。
神の視点の特徴は、どんな人物にもなり変われ、どんな人物の心の中も分かるまさに神のような立場で書けること。便利で書きやすい面もありますが、視点がころころ変わって読んでいて忙しいうえに、作者による説明ばかりで説得力がなくなるという弊害があります。
このような神の視点は19世紀小説に多い書き方で、古典には存在しても今はまずありえません。大沢在昌『売れる作家の全技術』にもこうあります。《私が選考委員を務める新人賞では、神視点の作品はすべて落選にします。》
人物を通して各人物視点
人物視点は、特定の人物を通して、その人物の見たもの、聞いたもの、感じたことを書いていく形式で、細かく分けると以下の二つがあります。
2-1. 一元視点
2-2. 多元視点
「一元視点」というのは視点人物が一貫して一人の形式です。一人称は一人称一元視点であり、三人称一元視点という形式もあります。
午前十時を過ぎて風がでた。
海岸を見下ろす県立病院のロビーに、師走の慌ただしさはなかった。薬の順番を待つ患者の姿も、見舞客の姿も、風を巻いて走る看護婦の姿もない。いつ来てもそうだ。窓に鉄格子の嵌まるこの病院には、外と混じり合うことのない空気と時間が滞留している。
――今年はこれが最後だな。(横山秀夫『動機』)
ここに書かれたことは、すべて主人公である貝瀬が感じたことであり、別の人物の知覚でもなければ、作者の横山秀夫が思ったことでもありません。
なお、視点の起点となる人物(視点人物)は主人公であることが大半ですが、形式主人公というか、ワトスン的な脇役を語り手にする場合もあります。
「多元視点」は章など大きなまとまりでは一元視点ながら、視点人物が変わったり、入れ替わったりするパターンですが、局所的には一元視点は守られていますから、基本的には一元視点と同じです。
このように人物視点では特定の一人の人物に背後霊のように密着して語りますが(視点人物の内面を代弁すると言ってもいいですが)、人物視点で書きながら、部分的に客観描写を入れる場合があります。たとえば、語り手がはっきりしない(敢えてはっきりさせていない)導入部や、話のアウトラインや大きな情景を客観的に描写、または説明する場合です。ただ、これをやる場合もアンフェアでないよう意識的にやることが肝要です。
トリックが被ると致命的
ミステリーを書く場合は、過去に書かれたトリックについて知っておく必要があります。でないと、著名な作家が百年も前に考えたトリックと同じものを思いつき、そうだと知らずに悦に入ることになりかねません。
とはいえ、誰かが一度使ったトリックは使えないかというとそうではなく、名作の中では大きなトリックとして扱われていたものを小ネタとして使うとか、その逆パターンとか、アレンジの仕方によっては再利用できます。
そのためにも、過去の作品をたくさん読んでおきましょう。何冊読めばいいか一概には言えませんが、五百冊は読んでおきたいです。
そのうえで言うと、物理的なトリックについては既に何十年も前に尽きたと言われています。
しかし、心理的なトリックもありますし、トリックそのものはさして凝ったものではない使用済みアイデアのアレンジでも、ホワイダニットを追求するなどしてエンターテインメントとしておもしろく仕上げれば、広義のミステリーとして成立しますから、まだまだいかようにも広げられます。
もっとも、本格推理に絞っても過去に書かれた作品は膨大にあり、すべてを読むわけにはいきません。そこで、ここではトリックに関するネタ本を二つ紹介します。
一つめは、江戸川乱歩『探偵小説の「謎」』(現代教養文庫)。ここでは八百余のトリックが九つの大項目に分けられて紹介されています。
もう一つは、間羊太郎『ミステリ百科事典』(文春文庫)。この本の巻頭の対談で宮部みゆきは、《ネタが割られていて興味を失うどころか、これを読んで面白そうと思って、あわてて探して読むことのほうが多くて。》と絶賛。
また、北村薫も大谷羊太郎の言葉を引用して、《自分はあんまりトリックを知らないから、よく知られているトリックをそうと知らずに書いて投稿して、それはもう使われてるよ、となったら困るので、「ミステリ百科事典」の連載を読んで研究して、デビューに成功したと。》と書いています。
ネタ本というより読者案内として読むといいでしょう。
※本記事は「公募ガイド2012年9月号」の記事を再掲載したものです。