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書くために学ぶ文学史4:近代文学の潮流 大正・昭和編(鈴木信一先生インタビュー)

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大正時代は私小説全盛時代

――大正になると私小説が出てきます。

大正時代に私小説が大流行りするんですが、これはイコール白樺派です。白樺派というのは要するに自然主義で、自然主義は写実主義を含んでいますので、ありのままに人間を写す。無理想、無解決と言うぐらいですから、虚構によって変な理想を盛り込んだり、中途半端に問題提起してそれを解決したり、オチをつけたりしない。そういうことは人生にはないだろう? という考え方ですね。
自然主義の田山花袋に「❽毎日掃いても落葉が溜まる。これが取りも直さず人生である」という言葉があります。これを僕はそこに解決はない、結びはないというニュアンスにとったんですが、自然主義というのはそういうものですよね。
それを引き継いだのが白樺派で、白樺派を引き継いだのが私小説です。

――大正時代は私小説一色?

大正8年に、芥川は当時の文学界についてうまいことを言っています。真善美という言葉がありますが、この順番を変えて真美善。真は、世の中の実相をありのままに写そうという自然主義を暗に指しています。美は耽美派、善は白樺派で、芥川は真美善、つまり自然主義と反自然主義がうまく統合されつつあり、そういう書き手が出始めていると言っています。

――それは誰?

なんのことはない、自分が属していた「新思潮」という東大系の雑誌、そこにいた芥川、久米正雄、菊池寛。それと早稲田系の「奇蹟」にいた葛西善蔵、広津和郎らのことです。

――文学史で言う新現実主義ですね。

しかし、色分けするのが不自然というか、志賀直哉は白樺派、谷崎潤一郎は耽美派ですよね。だけど、この二人は反目しているわけでは全然ない。新思潮派の芥川と耽美派の谷崎も東大の先輩後輩で、❾論争はしましたが親友です。
だから、色分けするのもなんだかなという気はするんですけれども、大正時代を一言で言えば、自然主義、耽美派、白樺派といった日本に同時的に発展した流派の人たちが引き続き活躍しながら、白樺派の流れをくむ私小説のパイプが太くなったというイメージです。

近代文学のターニングポイント

――大正も終わりに近づき、大きな転換期を迎えます。

それが大正13年です。この年、❿プロレタリア文学の拠点となる「文芸戦線」という雑誌と、新感覚派の拠点となる「文芸時代」という雑誌が発刊されます。ここが大きな⓫ターニングポイントです。

――私小説への影響は?

ロシア革命が起こり、労働者の解放だなんだと騒ぎになって、日本でも共産党のムーブメントが展開されます。そんな中で文学者はどう振る舞うべきかと言われたら、当然、今までみたいに身辺雑記を書いていていいのか、小さな私というものを描いていてなんになるのか、労働者の解放につながるのかという話になり
ます。そうなると私小説の書き手たちはもう書けなくなっちゃう。

――新感覚派はなぜ始まった?

実体験ばかりを大事にするような私小説の作法に我慢がならないというか、文芸と言うなら文の芸術だろう、だったら文体に技巧をこらすべきじゃないかという一派が生まれる。それが新感覚派で、新しい表現を実験的に作っていきます。

――新しい感覚とは?

横光利一の「日輪」という作品の中にこうあります。《彼は小石を拾うと森の中に投げ込んだ。森は数枚の柏の葉から月光を払い落して呟いた。》つまり、柏の葉に月の光が当たっていたわけですよね。そこに石が投げ込まれ、この葉が傾くと、さっきまで当たっていた月の光は当たらなくなるわけです。それを《月光を払い落とす》と表現した。こうした表現はいかにもとってつけたような、今使えばくさいような、あまりにもやりすぎじゃないかと言われるかもしれないけど、こういう文体で勝負しようというのが新感覚派です。川端康成の《国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。》の「夜の底が白くなった」も当時は新感覚的だと言われたんですね。
今までだったら《遠い山並みまで白い雪がずっと続いていた。》とでも書くところですが、そんな表現は文学的ではないといったところなのでしょうか。

――夜に底があるのかとツッコミたくなるところですね。これをエンターテインメント小説でやるのは微妙ですね。

そういう表現はいいから、先に進んでくれよと言われますね。しかし、読み流しの文学を目指すなら別ですが、これから書こうというときには、新感覚派のアイデアというのはひとつのとっかかりになるかなと。文芸である以上、文体に工夫をこらすというのは、小説を書く人が忘れてはならないことの一番大きな要素であろうとは思うんですけどね。

――大正時代は大衆文学が台頭します。

大正時代には⓬円本が生まれて雑誌も活況を呈しますが、それが何を意味するかというと、印刷技術が発達して廉価な本が作れるようになり、それを読める読者層も厚くなった。つまり、読者層を広げる物理的な環境が整ったんだろうなと。そんな中で、売れることで大衆小説は力をつけていったんだと思います。

○○派の無い時代へ

――戦前の昭和の文学状況は?

まず活躍するのは太宰治ですね。この時代、翼賛的に軍国主義を煽る形で、たとえば高村光太郎などはたくさん書いてしまうんですね。しかし、太宰は戦争を批判もしなければ肯定もしないという賢いくぐり方をしました。

――太宰は戦後も活躍します。

文学史的には新戯作派と言われるものですね。無頼派とも言います。戦争を経て、社会派的な目線を持つ戦後派と言われる人もいれば、そうした既成の価値から逃れるというか、脱落していくようなタイプの人もいて、戦後文学の中では忘れてはならない一派だと思います。

――⓭戦後派(第一次戦後派、第二次戦後派)の特徴は?

プロレタリア文学というのがありましたけど、なんだかんだ言って社会に目を向けるという目線を維持した人たちだと思います。政治的な趣向ということでいうと左翼的な人たちです。例外は三島由紀夫だけです。安部公房は社会思想的なものを書いた人ではありませんが、現代社会を風刺した作品も多いわけで、そう考えると反体制側の人なのかなと。

――昭和30年には⓮石原慎太郎がデビューします。

石原慎太郎は戦後派にも第三の新人にも属しません。23歳でデビューし、世代的にも違ったのではないでしょうか。

――その後、⓯内向の世代があり、昭和50年下半期に戦後生まれ初の芥川賞作家として中上健二が、翌51年上半期に村上龍が出てきます。

教科書で扱うのは、石原慎太郎と開高健、大江健三郎までですね。

――そうですか。ではここまでとします。ありがとうございました。

大衆文学の台頭

明治維新とともに印刷技術が普及し、世は新聞創刊ラッシュを迎えます。当時、新聞には二種類あり、大新聞は政論中心のインテリ向け、小こ新聞は大衆紙で、食いっぱぐれた読本作家や戯作者は小新聞で活躍しました。最初は雑報を書いていましたが、のちにこれが新聞連載に発展、明治10年代の人気は毒婦物と白浪物、つまり悪女と怪盗でした。
明治20年代は黒岩涙香の海外探偵小説翻案物が流行。尾崎紅葉の硯友社は小説大衆文学の台頭に娯楽性を求めていましたが、涙香のせいで本が売れなくなり、探偵小説人気にあやかって『探偵小説叢書』を出版、しかし、結果は惨敗だったそうです。
また、三遊亭円朝などの速記講談、立川文庫などの書き講談、講談倶楽部の新講談など庶民の娯楽が人気を博し、なかでも明治44年創刊の講談倶楽部(現「小説現代」)は昭和10年当時、発行部数50万部という怪物に成長します。
文学史で言う上の文学は、それまではこれら下の文学を別種のものとし、自分たちに対抗するものとは見なしていませんでしたが、大正時代には純文学×大衆文学という構図ができ始めます。
大正15年、芥川龍之介は中央公論誌上で、「大衆文芸家ももっと大きい顔をして小説家の領分へ切り込んで来るが好い。さもないと却って小説家が大衆文芸家の領分へ切り込むかもしれぬ」と言い、昭和10年、横光利一は『純粋小説論』の中で「純文学にして通俗小説」の実現以外に文芸復興はないと説きます。
戦後は通俗性やストーリー性のない純文学はますます売れなくなり、各出版社は危機感を覚えます。
昭和22年、林房雄は「日本の小説を発展させる道は純文学と大衆小説の中央にある」と発言、久米正雄はこれを中間小説と言い、日本初の中間小説誌『小説新潮』が創刊。『オール讀物』『講談倶楽部』も中間小説誌になり、活況を呈します。
現在、中間小説という言葉はほとんど使われません。それは中間小説がなくなったからではなく、市販されている小説の大半を占めているからかもしれません。
そして、中間小説の中には、今では純文学より遥かに重いテーマを扱ったものがあると言われています。

脚注

【脚注】——
❽ 「草の実一つ二つ」の中の一節。
❾ 芥川龍之介は昭和2年に、雑誌「改造」に文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』を連載。谷崎潤一郎と「小説の筋の芸術性」をめぐる論争をしました。芥川は「話の筋の面白さが芸術的価値を高めることはない」と主張し、谷崎はこれに真っ向から反対しましたが、論争というより、互いの文学観を別々のところで発表しあった形で、噛みあっていない面もあります。同年の芥川の死によって終了。
❿ 労働者文学。社会主義思想や共産主義思想と結びついた文学。
⓫ 平野謙は昭和初年の日本文学について、私小説、プロレタリア文学、新感覚派の三派鼎立説を唱えました。
⓬ 一冊一円の本の総称。大正15年の『現代日本文学全集』(改造社)を皮きりに各出版社が出版しました。もともと市内一円の円タクというタクシーがあり、円本という言葉はそこから生まれました。大正11年にアインシュタインが来日したのは改造社の招待によるもの。
⓭ 第一次と第二次をまとめ、単に戦後派としている文学史もあります。
⓮ 石原慎太郎は第1回文學界新人賞&芥川賞受賞者。文壇内の新人発掘イベントに過ぎなかった芥川賞、直木賞が、石原以降はジャーナリズムに乗るように。
⓯ 内向の世代以降は○○派といったグループ分けはなし。徒弟制や同人誌がなくなり、もっぱら新人賞を経由してデビューするからでしょうか。

 

※本記事は「公募ガイド2013年4月号」の記事を再掲載したものです。