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第29回「小説でもどうぞ」佳作 貧乏ゆすり 星野芳太郎

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第29回結果発表
課 題

※応募数288編
貧乏ゆすり 
星野芳太郎

 電車は空いていた。俺は四人がけのボックス席の窓側に余裕で座れた。上着のポケットから読みかけの文庫本を取り出す。しおりを挟んだページを開いた時、中年男が俺の斜め前、通路側の席に腰をおろした。無精髭を生やし、鬼瓦のようないかつい顔をしている。髪は前頭部が薄く、腹部が出て、いわゆる中年太りのくたびれた男。俺は男を一瞥しただけで文庫本に目を落とした。電車は、小さく揺れてスタートした。
 本を数行読んだところで、目の端が微妙な動きをとらえた。中年男の膝頭の小刻みな上下運動。貧乏ゆすりだ。その動きについ目が向かう。上下運動はなかなか止まる気配がない。見なきゃいいのだが、なぜか目が向いてしまう。いつ止まるんだ。一旦気になると、もうだめだ。気分はイライラジリジリしてくる。俺の右膝まで、むず痒くなってくる。
 どんな表情をしているのか気になり、男の顔を見た。俺の視線を感じれば、気まずくなって貧乏ゆすりを止めるかもしれないと思ったのだ。しかし、男は目を閉じたまま腕を組み、ひたすら右膝の上下運動を繰り返している。
 気にしなければいいのだ。見なきゃいい。視界に入らないようにすればいいだけだのことだ。俺は本を持つ手を窓側に向けた。男の膝は視野から消えた。これなら気にならないはずだった。だが、それでもダメだった。揺れている足の波動のようなものを俺の皮膚が捉えてしまうのだ。どうしても気になり、ちらっと盗み見てしまう。ああ、まだ動いている、ということになる。なんとおぞましい貧乏ゆすり。その揺れに連動して、俺の右足だけでなく、背骨あたりもむず痒くなる。
 もう本を読むどころではなくなる。これは俺の性格だ。そうなのだ。俺はラーメンや蕎麦をズズズーッと啜る音が苦手だ。あの音を聞くと虫唾が走る。そのため、ラーメンや蕎麦は大好きなのに、ラーメン店や蕎麦屋に入ることができない。以前、イタリアンレストランに入った時だ。スパゲッティをズルズル啜る客に遭遇した時は、フォークで突き刺してやろうかと思ったほどだ。それはともかく、目の前の貧乏ゆすりになんとか対処しなければならない。
 思いついた選択肢は三つ。この席から移動するか、男に貧乏ゆすりをやめるように声をかけるか、ひたすら我慢するかだ。
 まず席を変えること。これは屈辱以外のなにものでもない。この座席は、俺が先に着いていたのだ。後から来たやつに好きにされてたまるものか。
 次に、貧乏ゆすりをやめてくれと言うこと。男は鬼瓦のような顔つきだ。反社の人間かもしれない。「何ぬかしとんじゃ、われーっ」なんて大阪弁で怒鳴られたら、俺はビビってしまい。「ごめんなさい」と謝るしかない。なにしろ俺の肝っ玉は小さいし、喧嘩も弱い。かと言って我慢なんてこれ以上は無理だ。もう、拷問だ。
 ではどうすりゃいいんだ。と、パニック状態になっていた頭に、突然一つのアイデアが浮かんだ。そうなのだ。俺も貧乏ゆすりで対抗すればいいのだ。毒をもって毒を制すだ。
 むろん俺は貧乏ゆすりなんてやったことがない。が、男の膝頭の動きをみると、そんなに難しくはなさそうだ。ものは試しだ。その動きを真似て右足を動かしてみた。案外抵抗なく膝頭の上下運動ができた。一分間ほど続けてみる。やってみるとなんとなく気分が休まる。なるほど、精神の鎮静効果があるようだ。まさにコロンブスの卵だ。あれこれ悩むことはなかった。ということで、目的地になんとか精神を崩壊させずに着くことができた。
 以来、デスクワークの時も、レストランで飯を食う時も、歯科医院の待合室にいる時も貧乏ゆすりをするようになった。膝頭の上下運動をしていると気分が落ち着くのだ。貧乏ゆすりはすっかり俺の癖になった。ネットで調べてみると、貧乏ゆすりは健康にも良いという。血液の循環を良くし、エコノミークラス症候群などは、貧乏ゆすりで予防できるというし、認知症予防にもなるらしい。
 ところで、最近の電車の中や各種の待合室で、貧乏ゆすりはほとんど見られなくなっていた。これは日本人が裕福になったからだろう。しかし、コロナ禍や少子化などでマイナス成長の時代を迎え、日本はどんどん貧困な国になってきている。この時代こそ、貧乏ゆすりの復権が求められているのではないか。マイナスかけるマイナスがプラスになるように、貧乏かける貧乏で金持ちになれる。そうなのだ、貧乏ゆすりの連帯が日本を救うのだ。貧乏ゆすりを広める活動を始めよう。
 その日、電車に乗って席に座ると、目の前に気の弱そうな若い男が座っていた。俺は早速貧乏ゆすりを始めた。右膝のリズミカルな上下運動。自分ながらなかなか自然で美しい動きだ。目を閉じ、無我の境地で上下運動を続ける。
 目的地の駅に電車が到着し、目を開いた。と、俺の前の男も貧乏ゆすりをしていた。これだ。やったぜ。この一歩から、貧乏ゆすりの輪が広がっていくだろう。これで、日本はきっと金持ちの国に復活できると確信した。
(了)