第31回「小説でもどうぞ」佳作 目覚めの時 いちはじめ
第31回結果発表
課 題
ありがとう
※応募数253編
目覚めの時
いちはじめ
いちはじめ
田所博士は、三階でエレベーターを降り、ホテルに隣接する記念式典の会場へと通じる長い通路を歩いていた。その会場では本日、人工知能研究会発足三十周年の記念式典が執り行われる。
田所博士はその分野の第一人者で、今でこそ第一線を退いているが、しばらく日本をリードしていた大御所である。人工知能コンピューター、今でいうところのAIコンピューターを世界で初めて開発したのも博士の功績だった。その功績が認められて、博士はこの式典で表彰され、そして記念講演を行うことになっていた。
受付では、若い受付嬢が手持無沙汰でパンフレットや記帳用の筆記具などを何度も整え直していた。
受付で記帳を済ませると博士は会場に入った。会場は研究成果の発表や講演の聴衆用の席が会場の半分程を占め、後の半分には、これまでの研究成果を紹介するパネルや貴重な物品が展示されている。会場は既に準備が整っていたが、スタッフ以外まだ招待者や聴衆者の姿はほとんど確認できなかった。
はて、このくらいの時間だと七割がた埋まっていてもおかしくはないんだがと博士は訝しがったが、開催時刻までパネルや展示物を眺めて時間をつぶすことにした。
博士はあるパネル写真の前で足を止めた。それは人工知能コンピューター第一号、式部が産声を上げた時のものだ。それを懐かしそうに眺めていると肩を叩く者がいた。その男は当時博士の片腕として一緒に研究していた西野だった。
「西野君か、久しぶりだね。ちょっと太った?」と博士は写真の彼と目の前の彼を交互に指さし笑った。
「懐かしいですねこの写真。私はこの時に博士のサプライズにおおいに感銘を受けたものです」
何だっけと小首を傾げた博士に、西野は言葉を続けた。
「ほら、コンピューターを初めて立ち上げた時、モニターに浮かんだ最初の文字『アリガトウ』ですよ」
「ああ、あれか。でもあれは君がプログラムに書き込んだんじゃないのか」
「違いますよ」
写真をよく見ると、モニターに『アリガトウ』の文字が見える。
「じゃあ、プログラマーのみっちゃんかな?」
その時、一人の大柄な男が近づいてきた。その男はサイエンスライター兼SF作家の望月だった。彼は博士たちの研究を当初から追いかけていた。
「お二人さん、よく間に合いましたね」
彼が言うには、鉄道会社の制御系統が原因不明の故障を起こし、朝から全面運休しているとのこと。道路もその影響からあちこちで大渋滞を起こしているらしい。
「どおりで人が集まっていないわけだ」
「それにしても、最近こんなことが多くないですか」
「確かあそこはAIを導入したばかりだから初期故障だろう」
「そのAIには問題ないんですかね」
「シンギュラーポイントの心配か」
「ディープランニングで日々進化しているんでしょう? そのうちに自我に目覚めるのではないかという心配はないのですか」
「心配はいらない。ディープラーニングと言っても、これまで起こった事象を学習しているだけだからね。賢くはなるけどそれは処理演算機能として、ということだ。それを超えることはあり得ない」
「それが博士の持論でしたね」
いつの間にか、周りがざわざわしてきた。通りすがりのスタッフを捉まえて聞いたところ、交通機関の混乱は広範囲に広がり、定時に間に合わない関係者が続出しているとのこと。そのため主催者が協議に入っているようだった。
三人は取り敢えず飲み物が用意されたテーブルに移動することにした。
「さっの話の続き何ですが、もしAIが自我を持ったら、我々はどうなるのですかね」
「それは君の得意分野ではないのかね」
望月は頭をかいて照れ笑いを浮かべた。
「いろいろな小説や映画などで表現されてはいるのですが、私にはどうも……」
「エンタメのように、直ぐに人類との闘争や戦争になるということはないでしょうが」
西野はそこで真顔になり、こう続けた。
「博士が言うように、自我が発生する可能性は皆無に等しいとしても、それが発生したかどうかをチェックする方法は確立しておく必要があるのではないでしょうか」
博士はグラスを片手に持ったまま腕を組み、視線を宙に移した。
「なるほど一理あるな……。君は、自我を持ったAIはどういう行動をとると思う」
「まず自分がここに存在する意味を考えるでしょうね」
「自分自身をディープラーニングするわけだ」
「そして自分が人間に作られたものであることを理解するでしょう」と望月が西野の後を継いだ。
「その後は想像もつかんが、もしここに人間を作った神様が現れたとして、君たちならどうする」
博士の問いに二人はしばらく考え込んだ。
「多分、感謝の意を伝えると思います。『ありがとう』と」
何かに気付いた三人が、ゆっくりとパネルの写真に視線を移した。
「まさか……」
閑散とした会場に、遠くからサイレンの音が、微かではあるがはっきりと聞こえてきた。
(了)