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7.19更新 VOL.5 「文芸倶楽部」懸賞小説 文芸公募百年史

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文芸公募百年史

VOL.5 「文芸倶楽部」懸賞小説


今回は、明治期の文芸誌の雄、博文館の「文芸倶楽部」懸賞小説を紹介します。
入選者にのちの著名な作家はいないなあと思っていたら、最後のほうにとんでもない“大物”が!

明治期の文芸誌のもう一つの雄

前回は、春陽堂の「新小説」を取り上げた。今回はもう一つの雄、博文館の「文芸倶楽部」を取り上げる。明治期文芸誌の両雄だ。
前回のおさらいだが、春陽堂の「新小説」懸賞小説は明治30年に創設され、明治33年からは月1開催となった。賞金は10円(今の20万円くらい)だった。

一方、「文芸倶楽部」懸賞小説は明治36年、最初から月1回のサイクルで公募されている。賞金は20円。賞金を倍にしたのは、後発誌になってしまったので、その分、賞金に色をつけ、応募者を丸ごと取り込もうという戦略だったのかもしれない。やはり先行誌は強いので、後発組は何か手を打たないと太刀打ちできない。今と変わらないね。

「文芸倶楽部」懸賞小説は選考委員の名前が残っている。何名かいたようだが、一人は石橋思案。この人物は尾崎紅葉、山田美妙らとともに文芸結社、硯友社を結成するが、小説家としては人気がでなかったようで、明治28年以降は「文芸倶楽部」の編集主任となっている。いわば編集長。もう一人は武田鶯塘おうとう。こちらは「文芸倶楽部」の編集部員。つまり、内部選考だったということだ。

最終回あたりの入選者に岡田美千代が!

「文芸倶楽部」懸賞小説も月1開催だけに、何度も入選している常連の影が見える。
最初に目についたのは田村西男。第8回で3等、第11回で2等、第15回で3等、第18回で2等になっている。小説家としての知名度はないが、娘は「文学座」の結成に参加した新劇女優、田村秋子だそうだ。秋子のことは、里見弴が『宮本洋子』という小説に書いている。里見弴は有島武郎の弟で……話が脱線しましたので、これ以上はやめます!

ほか、滝閑邨、黒河内桂林、児島晴浜、森岡騒外といった人が常連さんのようで、何度も入選している。いずれも文学史に名を残すというほどではないが、実力が認められて「文芸倶楽部」に小説を発表している。その意味では単に宣伝として賞金を懸けて応募者を募るだけでなく、小説デビューの入り口にはなっていたようだ。

しかし、大物がいない。「文芸倶楽部」懸賞小説は明治39年12月まで46回募集され、延べ140人近くが入賞しているが、のちにお札の肖像になるような人はなかなかいないものだと諦めかけてた正にそのとき、最終回も近い第44回(明治39年10月)の3等と、最終回(第46回)の同じく3等に岡田美千代の名が! 興奮して「!」なんてつけてしまったが、誰それ?だよね。では、じっくりこの先を読んでみてくれ。

ところで、田山花袋の『蒲団』って知ってる?

よくも悪くも日本文学の伝統を作ったのは自然主義文学で、その始まりは田山花袋の『蒲団』と言われている。日本の自然主義文学の元はフランスから輸入された自然主義だが、どこでどう間違ったか「事実を書く」と曲解され、それが私小説を生むことになる。当然、その祖である『蒲団』も実話ベースの私小説ということになる。

あらすじを記すとこうだ。田山花袋らしき小説家、竹中時雄のもとに横山芳子という女学生から手紙が来て、時雄は才能を見出し弟子とする。そこに芳子の恋人、田中秀夫が芳子を追って上京してくる。三角関係の完成だ。時雄は二人がくっつかないようにするため、芳子を自分の家の二階に下宿させるが、二人は完全にデキていて、時雄はそれに激昂し、芳子を破門にする(破門って何も悪いことはしていないよね、花袋先生、逆恨み!)。

師匠としての、また男としての矜持から破門にしたが、花袋先生、いや時雄の悲しみは大きく、芳子の部屋に上がり、古い油の染みたリボンを取って匂いをかぎ、汚れた夜着に顔を押しつけて匂いをかぎ、芳子が残していった蒲団を敷き、夜着の汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣く……。作中の出来事とはいえ、私小説だからこれは事実だ。
誰ですか、「キモッ」と言ったのは。当時はここまで赤裸々に事実を書くのが小説だと思われていた。ありのままに書くってやつだ。恥部をさらけだされた読者はさぞびっくりしただろうね、スキャンダルにもなっただろうね。

スキャンダルになった美千代のその後は?

実際、かなりの騒ぎになった。花袋先生は書いた本人だから自業自得だが、芳子と秀夫のモデルになった二人にはいい迷惑だよね。当時は醜聞を売り物にした新聞が多かったから、記者に追いまわされたりしただろう。それもこれも花袋先生が勝手に「私」のことを書いたからだと、今だったらプライバシー侵害で訴えられている。作家への敬慕と恋愛感情を履き違えてはいけませんね。

で、この芳子のモデルになったのが誰あろう、「文芸倶楽部」懸賞小説の入選者、岡田美千代なんだよね。ほんとびっくり。美千代は花袋先生に「弟子にしてください」と手紙を書く前に「文芸倶楽部」懸賞小説に投稿して入選している。ということはきっと「私、『文芸倶楽部』の懸賞では二度入選していますのよ」なんて書いただろうね。

美千代は静雄(秀夫のモデル)との間に女児を儲けるが、一度別れて復縁し、最終的には離婚する。文筆は続け、少女雑誌で小説を発表したり、花袋への意趣返しの小説「ある女の手紙」を書いたりしている。大正期には、ストウ夫人『アンクル・トムの小屋』を翻訳し、その後、渡米するが、太平洋戦争の勃発で昭和16年に帰国し、晩年は花袋の回顧も書いたという。その波乱万丈の人生の皮切りが懸賞小説だった。改めて公募って人生変えちゃうなあという思いに至る。

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