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第34回「小説でもどうぞ」佳作 最終出社日 湯崎涼仁

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第34回結果発表
課 題

最後

※応募数233編
最終出社日 
湯崎涼仁

 私物を片付けた寂しいデスクで時が来るのを待っていた。ここに座るのも今日で最後だ。部下たちはいつも通りメールや電話に追われ、ある者は来客対応のために出払っている。
 聞き慣れた定時のチャイムの音が鳴り、就業時間が終わると私は静かにデスクを立った。これで本当に最後だ。すると不思議なことに部署の全員が仕事を切り上げて立ち上がった。
「課長、少しだけお時間よろしいですか?」
 部下の一人である係長が私を引き止めた。給湯室から出てきた若い女性社員がいつの間に用意したのか大きな花束を抱えている。
「課長が送別会をお好きでないのは知っているのですが、私を含めてどうしてもみんな一言挨拶したいということで。就業時間外なら大丈夫ですよね」
 そう言って私から見ればまだあどけなさの残る四十がらみの係長がいたずらっぽく笑った。就業時間中の心得を彼に説いたのは私だった。こうしている間にも給料が発生するのだというコスト意識を持ってほしくて頻繁にたばこ休憩する彼に厳しくあたったこともあった。
 それから花束をもった女子社員が私にそれを渡す。
「課長、今までご指導ありがとうございました。いつもおいしいお茶だってお客様から褒められるんですよ」
 お茶の淹れ方を指導したのは私だ。それ以外に彼女には名刺の渡し方、お酌の仕方、メールの文面を指導している。初めは学生じみた、友達に送るような文面だった。
「ああ、よかった、間に合った。今慌てて商談切り上げたんですよ、課長。俺、課長がいなくなると寂しくなります」
 そう言って文字通り息を切らせて駆けつけてきたのは期待の新人だ。体力があって物怖じしない期待のホープだ。夜中までよく二人で会社の将来について話した。
「よく間に合ったな。お前が一番課長にお世話になったもんな」
 係長がそう言って新人の肩を叩く。大学時代ラグビーで鍛えたらしい新人の大きくてがっしりした手が差し出され、私はその手を握った。
「課長、お元気で」
「みんな」
 私は感極まってつぶやいた。
 そうだ。私の居場所はここだったのだ。そのとき私の中で何かが大きく動いた。
「もしかしたら私が間違っていたのかもしれない」
 すると、ニコニコしていた彼らの表情があっけに取られたような顔に変わった。
「えーと、なんのことでしょうか?」係長が尋ねた。
「いや、私にできることはもうないと思って再雇用を断ったんだが、できることはまだあるかもしれないと思ってな。例えば新人の相談役とか」
 すると部下たちは一瞬、互いに目配せをしたように見えた。
「それでしたら今はメンターAIがいますので大丈夫なんですよ。さっきの商談でもずいぶん助けてもらいました。何しろ会社の製品を全部把握してますし」
「接待の仕方とか」
「今はほとんどオンラインで、接待はめったにないし、配膳もロボットがやってますから」
「業績を伸ばすために私の経験を活かしてコスト意識を持ってもらうとか」
「それも今は全部データで管理してまして」
 重たい沈黙が流れた。データで管理している? どこで? いつから? どうやって? なぜ私はしらない? いつもやっていた通りそうやって叱責しようかと思ったが、ふと私は今この瞬間からもうこの会社の社員ではないのだという事実に思い至った。

 会社の前にタクシーが停まっている。課員は私を玄関で見送り、全員こわばった表情でこちらを見ていた。タクシーが出発するまえに手を挙げて挨拶すると、全員が深々とお辞儀をした。
 彼らの姿が見えなくなるまでミラーを見ていたが、お辞儀の角度は完璧で、全員微動だにしなかった。私が教えたとおりだ。でも、私の見えないところではどうだ? 社員の一挙手一投足は人から見られているのだから見えないところでこそ気を抜くな。そうやってメールか何かで忠告しようと思ったが、思い直してやめた。
「運転手さん、今日で最終出社なんですよ。だからこんな高いリムジンで送迎してもらって。なんだか少し恥ずかしいですね」
 代わりに運転手に向かってそうつぶやくと「そうでしたか。それはご苦労さまでした」と心からねぎらってくれるような返事が返ってきた。
「会社のため何十年もやってきましたが、なんだかすっかり目標がなくなってしまいました」
 そう言うと、運転手は「わかります」と穏やかな口調で答えた。「誰かのためと思って今まで生きてきたのでしょう。しかし今後はご自分のために生きてみてはいかがでしょうか? 忙しくされていてできなかったことをして自分の人生を取り戻すチャンスだと考えてみては?」
 車窓からの景色は流れていく。そこには忙しく働いている人たちが見えた。「自分の人生か。そうですね」と私は思いがけずそのタクシー運転手の深い洞察に満ちた言葉に感動してそう答えた。自分の人生を生き直してみるのもいいかもしれない。
 その言葉の重みから、そのタクシー運転手もさぞ苦労されてきた人物だろうと思い、降りるときに運転席を見てみた。ぴしっとスーツを着こなした初老の男性が運転席にいるものと想像していたが、そこには誰もいない。
 私があっけに取られていると、黒塗りのリムジンは滑るように住宅街を駆け抜けて行った。ニュースで話題になっていたAIタクシーだと気がついたのはそれから何日も経ってからのことだった。
(了)