第36回「小説でもどうぞ」選外佳作 空のキャンバス 皆川まな
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
選外佳作
空のキャンバス 皆川まな
空のキャンバス 皆川まな
小さいころから絵を書くのが好きだった。父の書斎の本棚には、今でも白いクレヨンで書いた「絵」がある。一見するとぐじゃぐじゃの線なのだが、よくみると大きなスカートをはいた長い髪の女に見えてくる。これを描いたのは、当時三歳だった私で、おひめさま、おひめさま……と言いながらクレヨンを動かしていたという。ふつうは三歳の子供は絵など描かない。父も母もびっくりして、この子は天才ではないかと思ったそうである。もちろんそれは世間の親がよくやる勘違いなのだが、そのおかげでクレヨンの落書きは拭き取られることもなく、今でも残っている。
私には中途半端な絵の才能はあったようで、子供のときには、絵の上手な少女として近所では知られていた。思うに中途半端な才能くらいやっかいなものはない。研鑽にはげむのはよいが、もしそれで生活できるほどにはならなければ、人生を無為に過ごしてしまう。しかし、研鑽しているうちは、その先のことなどはわからない。
高校を出ると、当然のように美大に進学した。卒業生には、美術界で活躍する人が大勢いた。私もその列に連なるつもりで必死に絵を描き続けた。芸術の中でも、絵画というのは客観的評価が難しい。いくつもいくつもコンクールに出したが、自分の創作意図がどうも審査員には伝わらない。自分から見れば自分と同等かそれ以下と思うような作品が入選していく。結局、卒業間際になっても、絵画で生活する目途はたたなかった。入選経験もない私では、子供たちに絵を教えて小遣い程度の収入を得ることもできない。ただ、父は大手企業の管理職を務めていたし、私は一人っ子であったので、当面の生活の心配はなかった。当時は、家事手伝いといって、若い女性が仕事をしないで家にいることは普通のことであったし、私も仕事をしないで家にいることに抵抗はなかった。相変わらず絵を描き続け、コンクールに出品しては落選を続けていた。お見合いの話も何度か来た。けれどもいずれもまとまらなかった。数回デートをした後で先方から断ってきたため、その後はお見合いそのものを拒否するようになった。それでも、両親は私に優しく、三人だけの生活なので家事といっても大したものはなかったが、母親と一緒に家事をやり、ときには父の車でドライブをしたり、母と二人で買い物に出かけたりという生活が続いた。その頃には、父も関連企業での非常勤の勤務を経て完全引退していた。私の絵はずいぶんと増えていき、我が家の玄関にも台所にも居間にも、いたるところに私の絵がかけられていた。「上手い絵だろう。うちの娘が描いたんだ」と父は家にやってくる人すべてに、時には荷物配送の人にまでそういって自慢した。自慢しているときの父は幸福そうだった。
その父が血痰を吐くようになり、病院でいきなり余命宣告されたのは十年前のことだった。私と母は、自宅で父の看護をし、いよいよとなってから入院をさせた。晩秋の穏やかな日、父は息をひきとった。そして父の四十九日が過ぎる頃、今度は母が体の不調を訴えて横になることが多くなった。初めは看病や葬儀で疲れがたまったのかと思ったのだが、いつまでもよくならなかったので、病院で検査をしてみると、またもや手遅れの病気が見つかった。私は母の手をとって泣いた。次第に弱っていく母を看病していくなかで、私自身も母と一緒に向こうの世界に近づいていくような気がした。絵を描く気にもならず、行うことは、看護と最低限の家事だけになった。母の病気の進行は速かった。梅雨の頃に入院したと思ったら、その梅雨が明ける前に亡くなった。家に戻ってきた母の遺骸を前に、私は考え続けた。涙もでなかった。私は一体何をしてきたのだろうか。私の描きたいものってなんだったのだろうか。今までは、とにかく入選をしたい一心で、描いてきた。もし、無限のキャンパスがあれば、そこに、私の思いのすべてを描くことができるのに。私は薬をとりだした。これをある量飲めば私も母のもと、父のもとに行ける。こんな家に一人でいるのは一日だって耐えきれない。無意味な生には耐えられない。服用すると、今までにない息苦しさがやってきた。しかし、そのトンネルのような苦しさが過ぎると、光につつまれ、体が軽くなった。ふと下を見ると、布団に横たわる老女の傍に中年の女が突っ伏している。あれが私……さよなら醜くて惨めな私の人生。
そして今、私は風になっている。雲を使って大空という自由なキャンバスに絵を描いている。瑪瑙の城のような夕焼けの雲は私の憧れ、つねに形を変える白い波雲は私の不安。いたずらのように積雲でいろいろな形を作るのは人に見てもらいたいから。私は風のアーティスト。そして雲は私の作品。
(了)