第36回「小説でもどうぞ」選外佳作 孤島の神 小松紫
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
選外佳作
孤島の神 小松紫
孤島の神 小松紫
暗闇のなか男が松明をかかげると一枚の絵が、ぼう、と浮かび上がった。
村の人々と共に神殿にいた俺は目を凝らす。絵は牛のように大きく、この地である南海の孤島の風物が精緻に描かれている。陽光下の段々畑、頭に供物を載せ歩く女たち、闘鶏に興じる男たち、椰子の木に遊ぶリスや鳥。絵の周りに集う人々のなかには、手を合わせ拝む者、涙を流す者もいる。そして、二人の若者が石造りの祭壇にそれを置くと、松明の男が歩み寄り、炎を近づけた。
燻っていた火がやがて大きく広がっていくと、絵のなかのすべては呑まれていく。俺の隣で、祖父が言った。
「あれは、今まで描いたなかでも特によい出来だった。神もお喜びになるだろう」
そう、その絵を描いたのは祖父だった。この島の小さな村で、祖父は絵を描いて暮らしていた。年に一度、神殿の儀式で村は巨大な細密画を供物としてこの地の神に捧げる。そして、その絵を一年かけて描くことが祖父の仕事だった。
俺は跡継ぎとして、亡くなった父に代わり、祖父のもと修業をしていた。普通、師は弟子に色塗りなどの手伝いをさせる。しかしなぜか、祖父が俺にその役目をさせることはなかった。絵は、線で描かれその上に墨塗り、さらに彩色がされるが、祖父はすべての作業を独りで行っていた。また、俺にはもう一つ、どうしても解らないことがあった。
それは、ぜひとも祖父の絵を買いたいと言う裕福な外国人たちに、なぜ売らないのかということだ。せめてあと数枚多く絵を描き売るならば、母は毎日蔓を編んで籠を作らなくてもよいし、妹も以前からやりたがっていた伝統舞踊を習える。村の貧しい人々を助けることもできるだろう。絵の報酬は、祖父の腕からすれば莫大な額になるはずだった。しかし実際に祖父が描くのは、儀式のための一枚のみで、村人たちが日々持ち寄る、米や野菜や魚が謝礼として支払われるだけだ。でも祖父は、俺が進言してもこう答えるだけだった。
「あれは、この島の神への捧げものだ。それにふさわしいものでなければ。それに、濫作すれば質が落ちる」
俺は笑ってしまった。根を詰めずにもっと多くの絵を描けば村中が豊かになるのにもかかわらず、祖父の考えは変わらなかった。
そこで俺は思いついた。来年の絵も、もちろん祖父が描くことになっている。俺はそれとまったく同じ絵を隠れて描こう。そして儀式の夜、誰にも悟られないよう交換するのだ。夜目ならば、誰にもわかるまい。島外でも名を知られている祖父のことだ、その孫がこっそり売れば、きっと高値がつくだろう。
祖父は日中、庭にある東屋で仕事をしていた。絵は布に描かれた後、巻かれ棚に仕舞われる。皆が寝静まった夜、持ち出して模写すればいい。
だが、俺が考えていたより、ことは難しかった。線の一本、塗りの一刷毛でさえ、俺と祖父の腕は違いすぎた。自分の部屋で夜な夜な祖父の絵を広げ、俺は自問した。いったい何年修業してきたというのだ、今までもっと真剣に取り組んでいれば――そんなある日の朝、俺が別の、修業のための絵を描いていると、咳を一つしてから祖父がこう言った。
「腕を上げたな。構成や着想は以前からよかったが、技術が甘かった。近ごろは細部が実によい」
胸が踊ったが、俺の絵はまだまだだった。一年目、模写を完成させることはできなかったのだ。二年目も駄目だった。しかし、五年も経つ頃になると、俺の絵は変わった。祖父と同じような鋭くも清らかな線、うっとりするような色の移り変わりが、絵に宿るようになったのだ。儀式の前日に、とうとう絵が完成すると、俺はにやりとした。この島の風物が描かれた細密画は、祖父のものと瓜二つだった。
翌朝、祖父は絵を神殿へ奉納した。儀式は、深夜行われる。俺は夕闇に紛れ、神殿に向かった。この時間ならば、人々は食事をとるために家に帰り、準備が済んだ神殿には誰もいない。俺の描いた絵は誰にも見られないよう、祖父の絵に代わって祭壇に置いた。持ち帰った祖父の絵は、自分の部屋の箪笥にしまった。
そして、満月が雲間に掲げられたその夜。俺の模写は、祖父の絵として焼かれた。祖父は黙って絵に広がる炎を見つめていた。
しかし翌朝目覚めると、部屋の箪笥を開けた俺は、あっと声を上げた。そこにあるのは、俺の絵だった。俺が寺に置き、焼かれたはずの絵だったのだ。すると開いたドアの隙間から、小さな咳が聞こえた。祖父だった。
「よい出来だったが、やはり捧げるのはわしの絵だ。ただし、来年からはお前が描け。その絵は技法が駆使されておるから、これからも役に立つだろう」
俺は、呆然とした。祖父はいつの間にか、俺が神殿で取り替えた絵を、元通りにしていたのだ。
「神は見ておられるぞ」
俺の手は震えていた。一瞬、祖父の後ろに神殿が見えたのだ。祖父は続けた。
「このような細密画を何枚も描けるほどの技量はわしにはない。しかし、お前は若く力に満ちている。家族のため、村のためを思って絵を描き、売るならば、神もお前を祝福してくださるだろう。ただし、わしの模写ではなく、新しい絵を描き精進しなければならない」
そう言って微笑んだ祖父の顔は、晴れ晴れとしていた。
祖父が亡くなったのは、それから半年後だった。遺体は木の棺に入れられ、燃やされた。傍らに、俺は絵を置いた。俺が新しく描いた絵。それを、俺は祖父に捧げる。南海の孤島でひたすら絵を描き続けた、偉大なる、俺の神に。
(了)