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第36回「小説でもどうぞ」選外佳作 閃光描写 猫壁バリ

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小説・シナリオ
小説でもどうぞ
第36回結果発表
課 題

アート

※応募数263編
選外佳作 

閃光描写 
猫壁バリ

 星明りもない暗い森を歩いていた。鞄もiPhoneも気づけば持っていなかった。
 ここがどこなのか見当もつかない。闇雲にバスを乗り継いだ。降りた停留所の名称を思い出そうとすると、頭に浮かんだのは昼間のクレーマーの言葉だった。
「テメエの会社が悪いんだろうが。どう責任取るつもりだよ」
 コールセンターに電話を掛けてきたのは二歳児の父親だった。当社が提供する知育ゲームアプリを娘が遊んだところ、登場したクマのキャラクターがネコに見えたらしく、それ以来クマとネコの区別がつかないという。
 ひたすら謝罪を続け、男の捨て台詞と共に通話が終わったのは二時間後だった。とうに定時を過ぎて疲弊していると、上司から「クレームの処理が遅い」と怒鳴られた。上司に謝り、残りの仕事を片付け、上司に命じられた会議室の清掃をし、オフィスの消灯と戸締りをしてから帰路についた時、このまま遠くへ行こうと決めた。
 今日のような出来事は日常茶飯事で、一事が万事この調子だった。
 鬱蒼と茂る森は上り斜面となった。足を滑らせながら登り切ると、突然、二階建てのコテージが現れた。一般的な家屋の倍は広い。洒落た円形の丸窓があり、壁は蔦で覆われていた。
 暗闇に目を凝らすと、一階の窓が開いていた。白いカーテンが夜風になびいている。その光景が、自分の何かのスイッチを入れた。
 忍び込むのだ。そして金品を盗む。やりたいことをして、なりたい自分になる。
 吸い込まれるように窓へ近づく。室内へ侵入すると、そこは物置のような狭い部屋だった。シンナーのような刺激臭がする。
 金目の物はどこだ。価値の高い物はどれだ。
 暗闇の中で物色する。しかしあるのは木造の何かの道具ばかりで、金目の物はない。
「強盗か」
 思わず悲鳴を上げ、床に倒れ込んだ。背後の扉に老人が立っていた。
「も、もう、申し訳ありません」
 逃げることも忘れ、ただ謝っていた。
「強盗かと訊いている」
 老人の鋭い口調に肯くことしかできない。
 来い、と言って老人が歩き出す。有無を言わせぬ雰囲気に呑まれてついて行くと、そこは地下室だった。部屋中にキャンバスが置かれ、風景画や人物画、抽象画など様々な絵が描かれてあった。
「儂は画家だ。それを知って来たのか」
 首を振ると、老人は本棚から冊子を取り出した。海外のアート雑誌のようだ。表紙の写真は老人自身だった。
「ここにある絵のうち、一番価値が高いものを持って帰れ」
「……貰っていいんですか」
「そう言っている」
「どれが一番価値が高いんですか」
「自分で考えろ」
 部屋には無数の絵画がある。緻密なものもあれば、無造作に線を引いただけの絵もあった。
「最も価値が高い絵は、売れば一生遊んで暮らせる。ただし、それ以外の絵を選んでみろ。警察に突き出してやる」
 その台詞に背筋が凍る。絵の価値など全く分からない。見透かしたように老人はしゃがれた溜息をつく。
「なぜ盗みに入った」
 盗みに入った理由。本当に金が欲しかったわけではない。何かが変わると思った。一体どう変わりたかったのか。
「言葉で説明するな」
 老人は真っ新なキャンバスを木造の台に乗せ、絵の具のチューブを放った。
「絵で教えろ。お前が盗みに入った理由を描け」
「そんな、絵なんて、描けません」
「馬鹿言うな。子供でも描ける。四の五の言ってると警察を呼ぶぞ」
 そう言い放つと、老人は背を向けて椅子に座り、自身の作業途中の絵を眺め始めた。
 どうするべきか分からず、とにかく絵具を手に取った。
 今晩の自分に至った理由。
 頭の中で日中のクレーマーと上司の怒号が響いた。数珠繋ぎに似たような出来事が込み上げる。
 絵具の蓋を開け、感情に任せてキャンバスに直接塗りたくった。白い生地に乗った絵具を掌で擦りつける。手が黒に染まる。
 ただそれを続けた。白かったキャンバスは隙間なく色がついていた。ほぼ全てが黒く塗られ、所々に汚れた赤と緑の模様があり、毒蛙の皮膚のような気持ち悪さがあった。
 老人が傍に立って絵を眺めていた。
「次はこの絵を消せ」
「消すって、どうやって」
「他の色を乗せろ」
 まだ一度も触れていなかった白の絵具を手に取る。柔らかくも力強い色が、黒い絵の上に拡がる。暗闇をライトが照らすように、黒々とした絵が消えていく。黒が散った場所に、目の覚めるような青がうねり、龍のたてがみのような金がなびく。
 黒い絵は消えた。目の前には光源のようなキャンバスがあった。
「この絵を持って、さっさと帰れ」
 老人は仏頂面で言った。
「お前はこれから毎日絵を描け。最初みたいな絵は描くな。この絵を描け。描くために美しいと思うものを見聞きして、それ以外は切り捨てろ」
 老人が扉を開き、外へ出るよう促す。
「いい絵が描けたら、見せに来い」
 こうして帰り道は大荷物となった。身の丈ほどある絵画を背負うようにして森を歩いた。
 会社は辞めることに決めた。それから、画材屋はどこだろうと考えた。
(了)