第11回W選考委員版「小説でもどうぞ」最優秀賞 善意銀行 藤岡靖朝
第11回結果発表
課 題
善意
※応募数253編
善意銀行
藤岡靖朝
藤岡靖朝
前を歩いていた老婦人の手提げバッグから何かがひらりと落ちるのが見えた。ハンカチかと思ったが、歩道の上にふわりと着地したそれは長方形の紙切れで、大きく目立つ1と四つの0の横に渋沢栄一の肖像が入っていた。
「落ちましたよ」
オレは声をかけて、その札を拾い老婦人に手渡した。彼女は気がついていなかったと見えて、あわてて手提げバッグの中を確認し、オレから札を受け取ると何度も何度も頭を下げてお礼の言葉を繰り返し、たった今、銀行から下ろしてきたばかりの生活費を横着して封筒にも入れずバッグに突っこんだことを反省したあと、足早に立ち去っていった。
オレも自分の方向へと歩き出そうと踏み出したとき、この様子をどこからか見ていたらしい小柄な中年紳士が目の前に現れた。
「フム、君はなかなか見どころがあるようだ。どうかね、私の活動に参加しないかね」
突然、男が話しかけてきたのでオレは驚いた。
「なんですか、あなたは」
男は名刺を差し出した。そこには「善意銀行マネージャー良野善造」とあった。
「善意銀行?」
新手のキャッチセールスか何かの勧誘かと警戒するオレに男は言った。
「これは自分が他人のためにした善意を預けておける銀行だ。貯めた善意はいつか自分が困ったときなど善意を受けたいときに引き出して使うことができるのだ」
男は続けた。
「君はさっき、老婦人が落とした一万円札を拾って渡しただろう。ハダカの札だ。拾ってそのままポケットにねじ込んでしまっても、老婦人は気がつかず一万円札は君のものになったというのにだ。こんな善意をわが善意銀行に預けて貯めておくと、たとえば、今度は逆に君がお金を落として途方に暮れているときに、善意銀行に預けておいた善意を使うことで誰かに助けてもらえるのだ」
「ふ~ん」
説明を聞いていぶかしい点もあったが、損害のリスクもないようだし、オレは妙に納得してしまった。男はそんな様子を見て満足したようだった。
「善意銀行の利用方法は簡単だ。その名刺の裏に電話番号が二つ書いてある。他人に善意を行ったときはⒶのほうに電話をし、コールを五回聞くだけでよい。預け入れ登録完了だ。自分のために善意を引き出したいときはⒷの番号に電話をかけ、コールを五回聞くだけだ。すぐに誰かが善意を行ってくれるだろう」
男はさらに付け加えた。
「ああ、それから……善意銀行は選ばれた者しか利用ができない規約になっている。他人には決してこのことを
その言葉を残して男はあっという間に雑踏の中に消えていった。オレの手元には一枚の名刺が残り、それはつかの間の出来事が夢でないことを物語っていた。
以来、オレは人に善意を振りまくようになった。別に良い子ぶっているのではなく、ただ善意を貯めるという行為に興味を持ったからであり、何より他人に優しく親切にするのはそれだけで気持ちがよいことだと知ったからだった。
電車でお年寄りに席を譲るなんて当たり前、妊婦さんの荷物を持ってあげたり、店のレジで明らかに急いでいる人に順番をひとつ代わってあげたり、足をケガした小学生が車の往来が多い横断歩道を渡るのをフォローしたり、道に落ちていた空き缶を拾って捨てたり……以前では考えられないほど善意ある行いをし、そのつど、善意銀行に善意を預け入れた。
ある日、オレはうっかりして小さなバッグをどこかへ置き忘れたか、落としてしまった。サイフは別にしていたが、バッグの中にクレジットカードが入っていたのだ。すぐにカードを止めなければと思ったが、そうだ、善意銀行を使おうと思いついた。早速、善意を引き出すほうの番号に電話をし、オレは待った。
もう十分善意は貯まっているだろう。誰かが善意でオレのもとへ届けてくれるはず……だったが、全くそんなことはなかった。
オレはもう一度善意銀行に電話したが、結果は同じだった。どうなっているんだ! 結局、カード会社に連絡をし、警察に遺失物届けを出し、大変手間がかかった。憤然として警察を出ると、偶然、あの善意銀行の男が通りかかった。早速、オレは彼を捕まえて問いただした。
「おい、オレは善意銀行にいっぱい善意を預けたんだぞ。なのに自分のために善意を引き出そうとしたら全然できないじゃないか」
すると男は驚くべきことを言った。
「実は善意銀行は破綻したんだ。善意ある行いをして善意を預ける人より、善意を引き出そうとする人が圧倒的に多くなって、善意が足りなくなってしまったというわけさ」
そう言うと、男は身をひるがえして、あっという間に雑踏の中に姿を消した。オレは茫然と人の流れを見送るだけだった。人々は皆、冷たい表情をし、自分のことで精一杯の様子で黙々と歩いている。風が身に沁みた。
(了)