第39回「小説でもどうぞ」佳作 緒方玄白英世が死んだ日 桜坂あきら
第39回結果発表
課 題
眠り
※応募数355編
緒方玄白英世が死んだ日
桜坂あきら
桜坂あきら
数日前から体調が悪く、不眠を訴えていた父親を案じて、長男の緒方太郎が実家を訪ねたのは日曜の午前中であった。リビングに父親の姿が見えず、買い物にでも行っているのだろうと待っていた太郎であったが、胸騒ぎがして、二階の父親の寝室へと向かった。
父親はおとなしくベッドで寝ていた。
いつもは早起きの父親が、昼前にもなって起きないのはおかしいと思い、太郎は声を掛けたが、父親はピクリともしない。不審に思って父親を揺すったが、それでも目覚める気配がない。こうも起きないのはおかしいと思い、医者を呼んだ。
「緒方です。お休みに申し訳ございません。先生はおいでですか? ちょっと父の様子がおかしいもので」
太郎は、華岡医院に電話をした。院長で、父親の親友でもある華岡長英が駆けつけてくれた。普段の診察はすべて跡継ぎの息子に任せているが、ほかならぬ親友の急変とあって、院長自ら急いで来てくれた。
脈を取り、一通り確かめた後、華岡が言った。
「ご臨終です」
その一言を医師らしく厳かに告げた後、華岡は友の顔になった。
「緒方。お前、早過ぎるじゃないか」
そう言うと華岡はぽろぽろと涙をこぼした。
自宅での突然死ではあったが、華岡がすぐに死亡診断書を書き、自然死としてくれた。
役所への届け出は明日で良いと華岡が指示してくれた。こういうことが初めての太郎にとって、華岡の存在は本当にありがたいと心から感謝した。
葬儀屋が来るまで遺体はそのまま自室で静かに過ごさせることにした。
長男である太郎が、弟の次郎と、末の妹であり隣町の医師に嫁いだ北里花子にも連絡し、久しぶりに兄妹、三人が顔を揃えた。
緒方玄白英世。享年七十二歳。突然ではあったが、まさに眠っているような穏やかな死であった。玄白英世という大層な名は、「息子を当代一の名医に」と願って親が付けた名であったが、親の期待も空しく緒方玄白英世は、医学部には何度挑戦しても受からず、方針転換した薬学部にも入れず、結局のところ、現役時代を製薬会社の営業マンとして生きた。
幼少よりの親友、華岡長英は内科医となり親の後を継いだので、緒方玄白英世はその点では華岡に対して終生、羨望と尊敬の念を持っていた。進む道は違ったが二人は親友であったから、その最期を華岡に看取ってもらったことを当人も幸せに思っているだろうと、今はもう物言わぬ父親の枕の側で、子供たちは話した。
緒方玄白英世が我が子の名前を、太郎、次郎、花子としたのは、「名前で将来を縛り付けるのはよくない」との親心からであったと子供たちは聞かされていた。やはり故人は、自分の名前に、少なからぬ重圧を感じて青春時代を生きたのであろう。
「なんて穏やかな死に顔なの。お父さん、まるで眠っているみたい」
花子は、何かと世話の焼けた父、それでもとても優しかった父の顔を覗き込んで、また新たな涙を流した。
「若いときは、随分苦労した時期もあったけどね。最期は、こうして安らかに、本当に何も苦しむことなく逝ったね。寂しいが、少し羨ましい気もするよ」
華岡の言葉は親友なればこそと、子供たちはありがたく受け止めた。
葬儀屋が、通夜の支度と明日以降の打ち合わせに来るのは夜になる、と知らせてきた。この町は高齢者ばかりで、葬儀会館や斎場はいつも込み合っており、葬儀屋も多忙であった。
兄妹は葬儀を自宅での家族葬で行うと決めた。現役をとうに退いた父親の葬儀であれば、それでいいと結論した。
もう二十年も前に離婚していた故人の元妻、つまりは兄妹の母親も、今、こちらに向かっていると言うので、家族葬であれば余計な気を使わずに済むだろうとも考えた。
突然の死ではあったが、高齢者のことでもあり、その死も安らかで、皆しばらくは涙を流したが、その後は、華岡が「これも親友への供養だ」と言って話してくれる華岡と故人との若き日の想い出話を興味深く聞き、時には笑ったりもした。
きっといい葬儀になるだろうと、太郎も次郎も花子も思っていた。
階下でインターフォンがなった。
「葬儀屋だな」と言いながら、太郎が階下へ降りようとしたときである。
「ふぁあー」と間抜けなあくびの声がした。
ベッドに身体を起こした緒方玄白英世は、そこに居並ぶ子供たちと親友の顔を見て驚いたように言った。
「お前たち、何してるのだ?」
寝ぼけ
「ここ何日もよく眠れなかったからな。何とか寝ようと、昔読んだ医学書を引っ張り出してきて読んだら、急に眠くなったのだ。いやー実によく眠れた」
太郎は、玄関で待ちぼうけを喰わせている葬儀屋に、どう説明したものかと思いながら、階段を降りた。それでもどうにか説明し詫びを言い、葬儀屋が文句を言いつつ引き上げたところへ、母親が到着した。
「長ちゃんを呼んだの? バカね、息子じゃなきゃダメよ。相変わらず人騒がせな人たちね。私、帰るわ」と母親は靴も脱がずに帰った。
「死亡診断書、どうしましょうかね」
太郎がそう尋ねようとしたが、緒方玄白英世の親友、華岡長英の姿は、どさくさにまぎれいつの間にか消えていた。
(了)