第39回「小説でもどうぞ」佳作 寝た子を起こすと 柚みいこ
第39回結果発表
課 題
眠り
※応募数355編
寝た子を起こすと
柚みいこ
柚みいこ
塀の上で猫が寝ている。
ふわふわの毛をそっと撫でると、パッと起き、シャーと威嚇して、するりと逃げてしまった。折角、気持ち良く寝ていたのに邪魔しやがって、という具合か。
一人暮らしの休日は暇で仕様がない。散歩がてらコンビニに行き、弁当を買って帰ってきた。何もすることがないので万年床をひっくり返し、久し振りに敷布団を干すことにした。
ベランダに出ると、斜め向かいの家が目に入る。門柱の手前にコンクリートで囲んだ花壇があり、赤や黄色の花が細々と咲いているが、その花を背にして一人の老人が花壇の縁に腰掛けていた。
ピクリとも動かない。寝ているのかな、と思う。花壇は家の北側に造られているので、日向ぼっこという訳ではなさそうだ。デイサービスに連れていってくれる送迎バスでも待っているのだろうと、別段、気にも留めずに部屋に戻った。
買ってきた弁当を食べ、昼寝をし、だらだらテレビを眺めていると、瞬く間に一日が終わる。カアカアねぐらへ帰るカラスの鳴き声を聞いて、よっこらしょと腰を上げた。
布団を取り込むために再びベランダに出た。すると昼間の老人が、同じ姿勢のまままだ花壇の前にいた。おかしい。人を待つにしては、いくらなんでも長過ぎる。ふと最悪の事態を考えて、私はサンダルをつっかけると部屋を飛び出し、老人の元に走った。
「大丈夫ですか」
どこか身体の調子でも、と尋ねると、目を瞑っていた老人が、重そうな瞼をいかにも面倒そうに開けた。
「あんた、だれ?」
「向かいのアパートに住んでる者です」
「ふうん。この辺の土地は、全部オレのもんだったんだ。あんたんトコのアパートもね」
「ほう、大地主さんだったんですね」
老人が謝る。
「全く、うちの者は愛想がなくて悪いね」
今どきの若い人はそんなもんでしょう、と受け流していると、玄関のドアが細めにひらき人影がちらついたかと思ったら、直ぐにピタリと閉じられた。どうも居心地が悪い。
「僕、帰ります。あなたも中に入った方がいいですよ。昼間は温かいですが、日が落ちると途端に涼しくなりますから」
青色を失っていく空を仰ぎながら言うと、老人が、はいはいと皺だらけの手を振った。
次の日、ベランダで洗濯物を干していると、また、あの老人がいた。昨日と同じように、花壇の縁で頭を揺らしている。どうやら今日も眠っているようだ。あそこが、あの人の定位置なのだな、と思うことにした。
もしかしたら、家の中に居場所がないのだろうか。若夫婦との同居で身を小さくしている姿が目に浮かんだが、私には関係のないことである。
老人の家は私の通勤路に面している。あの日から毎日会うようになったので、自然と挨拶を交わす仲になった。
ある日、いつものように仕事帰りに通り掛かると、この日も老人は花壇の前で居眠りをしていた。秋の日は短い。日没が迫っていた。
「おじいさん」
よその人に、そう呼び掛けるのは
「風邪、引きますよ」
「あ、あんたか。オレのことを気遣ってくれるのは、他人のあんたくらいだね」
そのとき、この家のドアが勢いよく開いた。中で待機していたのか、一人の警察官がキビキビとした動きで近付いてきた。
「あなた、この辺りの人ですか」
職務質問だ。玄関の中から不安そうな顔でこちらを窺っているのは、数日前に私を無視した主婦だった。
「どういうつもりなのかな。ここの奥さん、気持ち悪がってるんですよ。門の前で一人でブツブツ言ってる人がいるって」
驚いた私は老人に助けを求めたが、当人は素知らぬ振りで、そっぽを向いている。
――そこに、おじいさんが……。
指差して言おうとした。だが、同時に何が起きているのか全てを悟り、私は観念して素直に頭を下げた。
「どうも、ご迷惑をお掛けしまして」
警察官から厳しく注意を受けた後、早打ちする心臓の鼓動に急かされてアパートに戻った。ドアに鍵を掛けて靴を脱ぐと、今度は無性に腹が立ってきた。良かれと思ってしていたことだったのに。
――あなたは余計なことばかりするんだから。
遠い昔、元妻に言われた文句を思い出した。まだ赤ん坊だった息子をあやそうと近寄ったら、突然、うわっと泣き出したのだ。
――さっき寝たばかりだったのよ。
鞄を放り出し、冷蔵庫を開けた。缶ビールを取り出して、ちゃぶ台で飲み始めた。こんな善良な人間を不審者扱いするなんて。
むしゃくしゃする気持ちで
「お、ビールか。旨そうだな」
あの老人だ。
あんたのせいだ、と苦情を並べると、老人が歯のない口を開けて笑った。
「気持ち良く眠っていたのに、起こすからだ」
(了)