第40回「小説でもどうぞ」佳作 真希さんのクリスマス 霧崎りすと
第40回結果発表
課 題
演技
※応募数317編
真希さんのクリスマス
霧崎りすと
霧崎りすと
さっきから、ずっと後ろをついてくる人がいる。
ぴったりくっついてくるので、振り返るに振り返れない。性別不明。さりげなく歩くスピードを変えたり、予備動作なしで角を曲がったりしてみたが、全く効果がなかった。私は、夜の街を静かな早歩きで、気持ちとしては全力で疾走していた。
ああ、どうしてこんなことになってしまったのか。
そもそもの始まりは、予定があるふうを装って会社を早退したことだった、と思う。今夜はクリスマス・イブで、私にはイケメン、高身長で高収入の優しい彼氏がいるという設定になっていた。
そう、設定だ。そんな男性にお近づきになる機会もないので、彼氏の人物造形には大変苦労した。親しい人にだけ見せる隠れた趣味は編み物。小学生の頃まで一緒に暮らしていたおばあちゃんによく懐いていたそう。そのおばあちゃんの影響で、あんこに目がない。
そんな彼と付き合い始めたのは、残暑厳しい九月のことだった。一緒に行く約束をしていた友人が当日朝に発熱してしまい、仕方なく一人で参加した東京湾クルーズがきっかけだった。同じく一人で参加していた彼と、運命的な出会いを果たしたのだ。
いや、そういう設定なのだった。
私は、そんな与太話を飽きもせず会社の同僚相手にしていた。今年のクリスマス・イブは、ラグジュアリーな夜景の見えるホテルで過ごす予定なんです。いえ、二十四日は彼も仕事を休めないそうなので、少し早く上がらせてもらう感じで大丈夫です、ありがとうございます。
ところで、ラグジュアリーってどういう意味なんだろうか? ランジェリーとは違うよね?
夜道をずんずん歩きながらも、思考は尽きない。めちゃくちゃに道を曲がったせいで少し前から完全なる迷子であったが、スマートフォンの地図アプリを確認する余裕はなかった。
そうか、靴紐だ!
そのとき、私は悪魔的なひらめきを得た。今歩いているのは広い歩道で、端には規則的に街路樹が植えられている。この街路樹と街路樹の間にさっと入り込み、ほどけた靴紐を直す振りをして、後ろの人をやり過ごせばよいのだ。残念ながら今日履いている靴に靴紐は実装されていなかったが、些末な問題に過ぎない。
これは私への挑戦状であった。いかに自然に、靴紐がほどけて結び直す人物を演じることができるか。ここ数か月、だてに彼氏がいる振りを続けてきたわけではない。会社にいるときだけでなく、家にいるときだって、日々彼氏がいる前提で暮らしてきたのだ。もはや、彼氏は、いる。
私は変わらず早歩きしながら、これからの行動を素早くシミュレートした。
まず、靴紐がほどけた違和感を覚えるところから始まる。紐の先の固い部分が地面に当たる音がかすかに聞こえたのかもしれない。左足がいい。左の足元を見ると、確かに靴紐がほどけかかっているのが見える。ほどけた紐を踏まないように気をつけながら、靴紐を直すのに都合のいい場所を素早く見繕う。あの街路樹を通り過ぎたところが良さそうだ。さっと街路樹の向こう側に入り込み、くるっと百八十度回転して歩道側に体を向け、左足を前に出してしゃがみ込む。そして、左足の靴紐を、ゆっくりと結び直すのだ。よし、完璧。
私は呼吸を整え、人知れず気合を入れると、シミュレーションの通りに行動を開始した。
違和感、足元、気をつけて、前方、街路樹、そこでくるっとターン、しゃがむ、左足。そして、目の前にすっと落ちる影。影?
「真希さんが今日一緒に過ごす彼氏って、僕ですよね?」
頭上から降ってきた声は、聞き覚えのあるものだった。それも、つい先ほど、職場で聞いたものだ。
「夜景の見えるホテルに全然着かないから、どうしたのかと思って」
私はしゃがんだまま、ゆっくりと顔を上げる。
「というか、泊まるにしては荷物少なすぎません?」
鈴木だった。同い年なのになぜかいつも敬語で話しかけてくる同期の鈴木だった。
私は非常に混乱していたが、とりあえずは、当初の予定通り靴紐を結び直す作業に戻ることにした。初志貫徹。もちろん、私の靴に靴紐は存在していない。
「でも安心してください。そんなこともあろうかと、真希さんの分の荷物も持ってきていますから」
イマジナリー靴紐を結び終わったので、私はゆっくりと立ち上がった。
鈴木は私に「このとおり」と右手の旅行鞄を掲げて見せる。ぶら下がったぬいぐるみが存在感を主張する。私の鞄だった。部屋にしまっていたはずが、なぜここに。
「私たちって、付き合ってるんだっけ?」
鞄を見たまま思わず問いかけると、鈴木はにっこりと笑って答えた。
「そうですよ。職場でもそういうことになっています。今日も、真希さんが退社した後で、盛大に送り出されましたし。もしかして、覚えてないんですか?」
「あれ、イケメン、高身長、高収入……?」
「そこは、真希さんなりの照れ隠しということになっているので」
笑顔で言い切る鈴木に「あ、こいつ確信犯だな」と思った。これは私への挑戦状だ。
そう、私たちは付き合っている。
「ホテルも押さえてあるんでしょう?」
「もちろん。ディナーの予約もしてあります」
私は鈴木の左腕に自分の右腕を絡ませ、キラキラしたクリスマスに向かって一歩を踏み出した。
「もしかして、合い鍵持ってるの?」
「恋人ですから」
(了)