第40回「小説でもどうぞ」選外佳作 天にも昇る 猫壁バリ
第40回結果発表
課 題
演技
※応募数317編
選外佳作
天にも昇る 猫壁バリ
天にも昇る 猫壁バリ
家に帰る三百メートルの道程は、常に波乱万丈の旅路です。
梨花は小枝を指揮者のように振りながら、トトロの歌を口ずさみ、舞うようにして保育園の正門を抜けます。路上に駆けだす彼女を慌てて追いかけると、梨花は突然立ち止まり、沿道の塀にピッタリと張り付きました。
「梨花、どうしたの?」
「梨花じゃないよ。壁だよ」
「え?」
「壁だよ。だからお話できないよ」
梨花は壁になってしまいました。自由な彼女になれないものはありません。でも、このままでは帰宅できません。
「ねえほら、暗くなってきたから、お家に帰ろうよ」
「ママは電柱だよ」
壁になった梨花が電信柱を指さします。
「ママは背が高いから電柱なんだよ」
渋々と私は電信柱の隣に立ちます。動こうものなら梨花が「動かないよ」と指摘します。
夕暮れ時の住宅街はそれなりに人通りがあり、謎に立ち尽くす私たちの脇を中高生やサラリーマンが通ります。訝しむ視線や断固見まいとする雰囲気を感じます。保育園の友達が通った時には「ばいばーい」と梨花は手を振り、即座に壁に戻りました。
シンシン、と軽やかな鈴の音が聞こえました。梨花が振り返ると、首輪をつけた灰色の猫が悠々と歩いています。
「ユズくんだ!」
それは我が家の斜向かいで飼われている猫でした。壁だった梨花は人間に戻り、トコトコと猫についていきます。猫が自宅へ帰るのなら我々も無事に帰宅できそうだと安堵したのも束の間、梨花が猫に向かって猛ダッシュし、驚いた猫も猛ダッシュし、もちろん私もダッシュして、合図も合意もなく徒競走が開幕します。猫は志半ばで沿道の家の庭先へ飛び込み、レースは唐突に幕を下ろしました。
格子のフェンスから庭を覗くと、猫が「なんなんですか」と不満そうにこちらを伺っています。この猫もまた梨花によって帰宅を阻まれたかと思うと、同情を禁じ得ません。
猫に笑顔で手を振った梨花が、両手をアスファルトにつきます。
「手が汚れちゃうよ、梨花」
「梨花じゃないよ。猫だよ」
猫になった梨花は四つん這いのまま進み始めます。両方の腕を同時に前へ出す進み方は、猫というより蛙です。わずかでも進めるぶん壁よりマシと言えますが、四つん這いのまま帰るわけにもいきません。
「ねえねえ、今日はご飯のあとにデザートのパイナップルがあるよ」
「そうなの?」梨花が顔を上げます。
「でも猫さんにデザートはあげられないな。梨花のだからね」
梨花は立ち上がり、手をぱんぱんと鳴らしてはたきます。
「わたしが梨花だよ」
力強い宣言。胸を張って歩き始めますが、デザートの魔力も長くは続きません。再び梨花の七変化が披露されます。飛行機になって地上百センチの大空を駆け巡り、だんごむしになって膝を抱え、風見鶏になってクルクル回り、踏み切りになってカンカン言いました。
やがて疲れた梨花は道路脇の段差に座り込みました。渡した水筒をぐびぐび飲みます。自宅までは残り五十メートルほどですが、俯いたままの梨花は一向に動こうとはしません。
「ね、早くお家に帰ってご飯食べて、デザート食べようよ」
再びデザートの魔力に頼りますが、梨花から返事はありません。何度か話しかけて、ようやく口を開きました。
「おうちには帰らないよ」
梨花は目を伏せたまま立ち上がり、指で夜空を差します。
「梨花が帰るのは、お月さまだよ」
すっかり陽が落ちた空には、落ちてきそうなほど大きな満月が浮かんでいました。
「お月さまじゃなくて、お家に帰ろうよ」
「無理だよ。もうお迎えがきてる」
突然、周囲に人の気配を感じました。振り返ると、十人ほどの女性が私たちを取り囲んでいます。皆、まるで能楽のような装束を身に纏っていました。一人の女性が滑るようにこちらへ近づき、私の足に触れます。すると私の足はアスファルトの一部になったかのように動かなくなってしまいました。
「さよなら、ママ」
梨花を見つめる私の視線は、徐々に上へ上へと移ります。梨花と女性たちは少しずつ宙へと浮かんでいきます。
「待って、梨花、どういうことなの!」
「梨花はお月さまの人だから」
「はい、カット! オッケー!」
監督の声が響き、私はワイヤーを外された少女に微笑みました。
「名演技だったよ」
「ありがとうございます」
スタッフの拡声器の声が響く。
「本日の撮影は以上となります。お疲れ様でした」
「お父さん! お母さん!」と少女が駆けていき、若い男女に飛びつきます。先程の迫真の演技はどこへやら、「抱っこして~」と甘えています。
「ご両親の前では普通の女の子ね」
「違いますよ」隣に来たスタッフが訂正します。「あれはご両親ではなく、別作品の両親役です。今日は見学に来たのでしょう」
あら、と思わず声が漏れます。
「将来は大物女優になりそうね」
「あの子の夢は宇宙飛行士だそうです」
私はスタッフと顔を見合わせて笑いました。
自由な彼女になれないものはありません。
(了)