第42回「小説でもどうぞ」最優秀賞 最期の手紙 さとう美恭


第42回結果発表
課題
手紙
※応募数385編

さとう美恭
ただいま、と小さなため息と共に呟いた。
玄関を開けて右手の靴箱の上に郵便物が積み重なっている。夫はいつもポストの投函物をここに置きっぱなしにする。自分の郵便物だけを抜いて、あとは知らんふりだ。根はないが気がまわらない。今日は特にイラつく。
チラシと郵便の束を抱えてリビングに入り、テーブルにどさりと置く。今度は聞こえよがしに大きなため息をついた。
「あ、おかえり。お清めの塩はした?」
「身内の葬儀の時はお清めはしないのよ」
「そうなのか。会葬御礼に塩が入ってたから、しちゃったよ」
母が死んだ。七十六歳だった。私は葬儀後二日ほど地元に残り、夫と娘には先に帰ってもらったのだ。
「お義父さん。かなり気落ちしてたよな」
「突然だったから……。姉さんも心配してたわ」
母は、私たち姉妹が「白熱球」と呼ぶほど明るい人だった。反して父は無口、不器用、カミナリ親父。でも、もう相手がいないのだから、カミナリも落とせない。さぞかし家が静かになってしまうだろう。
「愛美は? 出かけてるの?」
「予備校の冬季講習だよ。そのためにひと足先に帰ってきたんだから」
そうだった。忙しい毎日に強引に割り込んできた母の死という非日常。そこから帰ってきた私の頭の中は、ぽっかりと空っぽになっていた。
「お義母さんの最期に間に合ってよかったな」
「そうね。肺炎であんなに急に逝っちゃうなんて、今でも信じられない」
「長患いも大変だぞ。本人が元気なうちにポックリ逝ってくれるのが一番いいんだよ」
悪気のない無神経さが癇に障る。夫のデリカシーのなさを無言でやり過ごすことには慣れているはずなのに。疲れているのか。
「いらないチラシはマンションのゴミ箱に捨ててから持って上がってくれる? 後が面倒なのよ」
「ああ、はいはい。わかったわかった」
結婚して二十三年である。浮気や借金などのトラブルはなかったが、日々の小さな不満は、夫への愛情を枯渇させていく。
チラシを丸める拳にイライラをこめながら片付けていると、その下から、封筒が出てきた。差出人に目が留まり、一瞬息を飲む。母からの手紙だった。そうか、慌ただしさですっかり忘れていたが、今日は私の誕生日だ。
母は筆まめな人だった。実家を離れて二十五年、毎年誕生日には手紙をくれていたのだ。配達日指定で誕生日当日に届くその手紙は、おめでとうの一言と母のお喋りのような文章が並ぶ他愛のないものだったけれど、毎年楽しみにしていたのだ。きっと、自分の死も知らず早めに郵送の手配をしていたのだろう。
これが母からの最期の手紙かと思うと鼻の奥がツンとした。夫の前で泣きたくないと、キュッと目頭に力を入れて封を開けた。
まさみちゃんへ
四十五歳のお誕生日おめでとう。元気にしていますか? お盆には、疲れた様子だったので心配してたのよ。
そういえば、私があなたと同じくらいの年の頃、やってもやっても終わらない家事や雑事に疲れ、何もしない夫、自分のことしか頭にない子供達(あなたたちのことよ!)に不満が募ることも度々でした。誰もわかってくれないと気持ちが塞ぎ、このままどこかに行ってしまいたいって、遅くまで商店街を行ったり来たりしたことが何回もありました。でも行くところもなく、冷えた体ですごすごと帰ってくれば『お母さん、おかえりー』と親の気も知らないあなた達の笑顔と湯気が立つような家の温もりに救われていたのよ。今となっては懐かしいわ。
「やだ、そんなこと覚えてない」
思わず呟いた。私の記憶の中の母はいつでも「天然白熱球」。母さえいれば家の中はいつでも明るかった。そんな母が大好きで、自分ではお手伝いもちゃんとする母思いのいい娘のつもりだったのに。つい苦笑してしまい、目頭まで出かかっていた涙もひいた。
「なんだ独りごと言って。気持ち悪いな」
「お母さんからの手紙なのよ。ほら、毎年誕生日に送ってくれるやつ。亡くなる前に出してくれてたみたい」
「えっ! そうか……」
私は母の手紙に目を戻す。
最近、驚いたことがありました。お父さんが私のこと「祥ちゃん」って呼ぶの。結婚前にはそう呼んでたのよ。あなたたちに恵まれてからは「母さん」「おい」「お前」だったでしょう?
「祥子」って名前も忘れたのかと思ってたのに。「祥ちゃん」なんて呼ばれたの五十年ぶりよ! ついこの間、私が風邪で、だるいわ、って言ってたら「祥ちゃんは横になっとき。俺が茶わんば洗うけん」って、急に。洗った茶碗には、お米がついてて、翌日洗い直したけどね。それからずっと「祥ちゃん」って呼ぶのよ。
岩石みたいな人だから、一生変わらないって思ってたのにね。年をとるって面白いわ。
今、お母さんは幸せです。
まあちゃんも高雄さんと仲良くね。お正月に会えることを楽しみにしています。
祥ちゃんより
手の甲に熱いものを感じた。ひいたはずの涙がボタボタと手の甲に落ちている。夫が見ているようで恥ずかしかったが、止まらなかった。
数分経っただろうか。コトリ、と目の前にグラスが置かれた。
「お義母さんに献盃だ。それと……誕生日だったな。おめでとう」
「うん。ありがとう」
グラスをカチリと合わせた。注がれたビールの冷たい喉越しが、ホウッと安堵のため息を押し出す。たまには気が利くじゃない。
私も夫も、年を重ねて変わっていくことがあるのか? わからない。でも、少しだけ行く先の姿を見てみたい気持ちがわいた。最期の手紙のおかげだろうか。