第1回「おい・おい」選外佳作 耳鳴り 後藤誠功


耳鳴り
後藤誠功
脳はよく勘違いをするらしい。加齢による耳鳴りも、脳の勘違いと医者に言われた。高齢の耳鳴りは、聞き取れない音を脳が懸命に聞こうとして、音を作り出しているという。
デイケアで介護職をしていると、いろいろな人に出会う。以前、職員も敬遠しがちの気難しい利用者がいた。短気でせっかちな七十代の男性で、怒鳴られたり蹴られたりした職員もいた。
その彼はタクシーの運転手だったが、脳出血により片麻痺になった。体は太り丸々としている。情報では歯が悪くなり、歯医者に通っているということだった。
帰宅前になって、その彼が「はいしゃはまだか?」と私に気色ばんだ顔で言った。彼は帰宅してから歯医者に行くのだろう。
早く帰りたいのか、彼が怒りだした。送迎の準備ができ、私は彼に「歯医者に間に合いそうですね」と笑顔で言った。すると怪訝な顔をして車に乗り込んだ。
あとで考えてみると、実は「歯医者」ではなく、「配車」だったのだ。そういえば彼はタクシーの運転手だった。「私も老いたな」と思った。
私は定年後の六十七歳まで、介護とレクリエーションインストラクターを兼ねて働いていた。しかし、人の話が耳に籠ったように聞こえだした。原因は難聴と耳鳴りだった。
六十を過ぎたあたりから不眠と耳鳴りが始まり、膝と右腕も痛みだした。膝痛は趣味のジョギングが原因で、右腕は介護動作での過労だった。
利用者に佐藤さんという方がいた。職員が、マスクの下から「佐藤さん」と呼ぶと、自分の名前の「後藤さん」に聞こえてしまう。同僚の「小網(こあみ)さん」と「河野(こうの)さん」をよく聞き違えた。これが頻繁に起こると、自分の耳を疑わざるを得なくなり、業務にも支障が出た。
若いころ、妻は「人の話を聞いていない」と言って私をなじった。男はえてして妻の話を半分ほどしか聞かないようだ。我が家では数年前からカレンダーに予定を書き込むようにした。しかし、多忙な中学教師の妻は、しばしば口頭で言う。
私は最近、話を聞くときに耳に両手を添えるようになった。聞き間違えると大変である。後で生徒のように怒られる。聞くのも真剣だ。
妻が「降参してるの?」と笑って私に聞く。両手を耳に添えるとホールドアップに見えるらしい。「違う、そうじゃない」とは言えない。私は「名前が強盗(後藤)だからね」と冗談を言いながら伸びをする。まだ妻には耳の不調を話していない。しかし、私の秘密を妻も薄々気づいているのかもしれない。
(了)