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第1回「おい・おい」佳作 もうひとりの私を呼んでいる 啓子

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おい・おい
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佳作

もうひとりの私を呼んでいる
啓子

 実家のリビングの隅で、母が小声で電話をかけている。一体どこにかけているのだろう。
「もしもし、私。近頃、頭がおかしくなっちゃったみたいでね、わけがわからないの」
 父が施設に入所したことで一人暮らしになってしまった母を見守るために、私が帰省してから一週間ほどがたっていた。母が時々誰かに電話をかけていることには気づいていたが、おそらく姉に愚痴でもこぼしているのだろうと思っていた。だが、どうも様子がおかしい。
 母は電話の相手に「わけがわからない」を連発し、悪いんだけど、今から来てくれない、などと言い出した。夜の十時である。たまらず私は母の肩を叩いた。
「誰と話しているの?」
 母は驚いた顔をして振り向いた。
「啓子よ。困ったことになったから、啓子に来てもらおうと思って」
「あのさ、啓子は私だよ」
 母は戸惑いの表情を浮かべると無造作に受話器を置き、取り繕うように、えへへと笑った。えへへじゃないよ。どうやら母は今ここにいる啓子には内緒で、離れて暮らす「啓子」を呼び出そうとしていたようだ。私はドッペルゲンガーか。
 私の自宅にいる家族に、母から電話があったかどうかメールで尋ねてみたけれど、誰からも電話はないとのことだった。脱力。見知らぬ老婆からの間違い電話を受けてしまった人に、私は心の中で謝罪した。
 母が困っているのは確かなことだ。自分の状況を理解できなくて、不安でいっぱいなのだろう。話を聞いてほしい、助けてほしいと、すがる思いで電話で娘を呼んでいる。だが、それは今の私ではなく、母と暮らしていた頃の昔の私なのだ。なんだかやるせない。
 老いに気づいてしまうのは切ない。できたはずのことができなくなり、記憶は薄れ、不確かなものごとが増えていく。そんな母の姿は、いつかはお前もそうなるのだと私に告げていた。
 みんなが行く道だ。母が少しでも安心してくらせるよう、私は話を聞いてあげることしかできない。母が求めているのが昔の私だとしてもだ。話したそばから、納得したことも記憶も消え失せてしまうのだろうけど。
 母は今日も、同じ屋根の下にいる私の隙をみて、もうひとりの私に小声で電話をかけている。
(了)