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第1回「おい・おい」佳作 母ののっぺ汁 木暮ぶん

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佳作

母ののっぺ汁
木暮ぶん

 母は高校生のときに祖母の養女となり、高校卒業後に二人で、長岡駅前で「柏屋」という食堂を切り盛りしていた。調理師免許を持っていたし、料理が本当にうまかった。煮物や揚げ物などの定番料理はもちろんだが、どこで覚えたのかハイカラな洋食や中華も作れた。実家が呉服屋で忙しかったから、小学生のときから台所に立って食事の支度をしていたそう。九十歳の今日まで八十年余りも家族の食事を作っていたことになる。店は私が幼い頃に閉店したから、それからはもっぱら家族のために毎日調理していた。父が典型的な昭和一桁生まれの、家事は一切しないことが自慢の人だったので、様々な事情があって跡取りの私たち家族と別居してからも、ほとんど外食することはなく、父の食事を作っていた。
 正月に子どもや孫が訪ねれば、漆塗りの盆皿に美しく盛ったおせちと定番ののっぺ汁が待っていた。私の子どもたちは「おばあちゃんののっぺはお母さんのより格段においしい」と楽しみにしていた。
 昨年の正月に、いつも通り年賀に皆で行くと、テーブルの上に白菜の漬物が出ていた。正月料理はのっぺ汁だけだった。
「何していいか分からなかったから、汁だけにしたわ」
 と言う母に、
「いいよ、お母さんののっぺを楽しみに来ているのだから」
 と答えたものの、正直、がっかりした。
 正月の挨拶をして乾杯し、のっぺ汁を食べ始めると、子どもと思わず顔を見合わせた。
「なんか、いつもののっぺと違う味だね。何入れたの?」
 と訊くと、
「酒粕入れたんだよ、のっぺの味つけなんだったか忘れてさ」
 そのときはもう九十歳なのだから、そういうこともあるのかと思った。そのうちまた思い出して、おいしい料理を作ってくれると信じていた。
 それから半年後、母は何もできなくなっていた。味噌汁さえ、父が見よう見まねで作っていた。食事を摂らなくなり、目を閉じてうつむいているか、排便のことを気にしてトイレ通いしている状態になり、体が弱って病院に入院した。認知症と診断され、今は施設で生活している。
 面会に行くと、「毎日献立を考えていたけど、ここでは何もしなくてもご馳走が食べられるんだよ」とニコニコしている。
「ずっと家族の食事の支度をしていたから、もう休んでいいよってことなんじゃないの」
 と言うと、「そうだね」と答える。
 そう言いながらも、母の手料理が食べられなくなったことがとても寂しい。孫たちが小さいときによく作ってくれたミルク団子の作り方も忘れてしまった。同居していた頃の思い出を話しても「そんなこともあったかねえ」と言うばかり。面会に行くと、同じことを繰り返して話し続けるだけで、会話にならない。
 それでも施設の中で何やら楽しそうに過ごしている母は、台所仕事からやっと解放されて楽になったのかなと思う。前掛け姿で台所に立っていた母の姿は、家族の胸の中にある。
(了)