公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第1回「おい・おい」選外佳作 浮遊するもの 森海眠

タグ
おい・おい
投稿する
結果発表
<選外佳作>

浮遊するもの
森海眠

 身体的な老化はあらゆるパーツに起きているのだが、聴力の低下に起因する会話不全が何とももどかしい。
 ランチに集合した友人との会話は至近距離でなされるからなんの問題もない。最近は稀になったが仕事系の話は全身全霊で聞き、メールで確認もするので心配ない。
 我が家のキッチンに立つとダイニングとリビングが見通せる。その空間に発されたものの受け止められなかった言葉が浮遊している。無色透明な言葉がふわふわと。
 在宅ワークを定時で切り上げた夫がソファで寛ぐ時間帯、私は調理の仕上げにかかっている。ふいに夫が何か言う。
 お(独り言じゃないな)、と気づいた時には四、五語くらいは聞き逃しているので、ジャンル不明なトークが進行している。人は会話の際、相手の発する言葉を無意識に推察して聞いていると読んだことがある。しかし、私の周囲では鍋や炊飯器、換気扇がオノマトペの大合奏、夫の前のテレビからは大音量のニュース。推察で補うったって限界があろう。
 わかりもしないのに同意を示して会話を成立せしめ、相互自己満足を演出したくはない。そこで反応を返すのだが、そもそも聞き取れるのは自分に関係ある言葉になりがち、かつそれに触発された文章を組み立てる間に夫の話の後半は聞き漏らしがちで、結局こう言われるのだ。
「君は本当に人の話を聞いてないな」
 違う、そうじゃない。言葉が届いておらんのだ。聞く準備のない相手に騒音をバックに正面を向きもせんでもごもごと話して、ちゃんと届く訳なかろうが。と心の中で言う。
 夫とだって隣り合って話せば今まで通りだ。ではこの会話不全は聴力だけの問題なのか。
 相手の関心事に興味がないから推察できないのでは? いや専業主婦化して慢性的会話不足に陥った私は、夫の話の一部分、言葉に便乗し、逆に発言したのでは? つまり指摘通り人の話を聞いていない。夫の話の中身を私はちゃんと受け止めず、不本意に聞き手にされた夫は私の言葉を受け止めない。だからこの空間を当てどころなく言葉が漂っているのだ。
 たかが日常会話、だからこそ疎かにしたくない。夫よ、どんとこい。結末までちゃんと聞くぞ。ことことジュージューが一切消えた事に気づき、夫はこちらに向き直り大きく口を開く。その言葉は浮遊せず、真っ直ぐ私に届くはずだ。
(了)