第1回「おい・おい」選外佳作 違う、そうじゃない 長谷川餅夫


違う、そうじゃない
長谷川餅夫
我が家には三つの老いがある。一つ目は七十四歳の私。二つ目は、私より十九歳年下とはいえ、加齢を重ねる妻。そして三つ目が、十七歳のミニチュアダックスフンド「サンタ」だ。人間でいえば八十歳を優に超える老犬である。
最近のサンタは、本当に困ったちゃんだ。トイレの失敗は日常茶飯事。夜中に理由もなく「アオーン」と遠吠えをして、近所の手前申し訳ない。妻は献身的にサンタの世話を焼いている。排泄の失敗があれば黙々と片付け、夜中の遠吠えには慌てて駆け寄る。
ところが先日、いつものように床にお漏らしをしたサンタを見て、妻が思わず口にした。
「もう、困ったおじいちゃんね」
その瞬間、妻の顔が青くなった。私がじっと見つめていたからだ。慌てふためいた妻は、必死に手をひらひらと振りながら叫んだ。
「違う、そうじゃない! サンタってば、この子のことよ! あなたのことじゃないの!」
私は笑いを堪えながら言った。
「わかってるよ。でも、そんなに否定しなくてもいいじゃないか」
実際のところ、妻の言葉は私にも当てはまっていた。七十四歳ともなれば、完璧とは程遠い。忘れ物は増え、同じ話を繰り返し、妻に迷惑をかけることもある。サンタと私、二匹の困ったおじいちゃんを世話する妻の苦労は察するに余りある。
それでも妻は、私たち二匹を見捨てることなく、愛情を注いでくれる。時には「違う、そうじゃない」と慌てて弁解することもあるけれど、その慌てぶりこそが愛情の証なのだ。
サンタは今日も昼寝をしながら、時折びくっと体を震わせている。きっと若い頃の夢を見ているのだろう。私も同じだ。若い頃の記憶が鮮明に蘇る一方で、昨日のことが思い出せなかったりする。
老いることは確かに不便だ。体は思うように動かないし、記憶も曖昧になる。それでも、妻と老犬と三人で過ごす日々は、不思議と穏やかで温かい。
(了)