第46回「小説でもどうぞ」佳作 後悔 いちはじめ


第46回結果発表
課 題
試験
※応募数347編

いちはじめ
路線バスは悲鳴に近いブレーキ音を響かせながら、
俺はコンビニで買った乾き物を肴に、安酒をちびりちびりとやっている。
――行政の奴らめ、ひでぇことしやがる。
奴らは街の美観を損なうという理由で、浮浪者のねぐらである河川敷や公園にある青テントや掘っ建て小屋を一斉に撤去し始めた。それだけではない。公園のベンチも寝そべることができないデザインに軒並み変えていきやがった。万博だかオリンピックだか知らないが、海外から観光客が来るので浮浪者を見せたくないのだ。お陰でおれは都心を離れる羽目になり、こうして長距離の路線バスに揺られているというわけだ。
――違う人生もあったはずなのに……。
いつもこの問いかけが頭に浮かんでくる。
原因は分かっている。大学入試センター試験だ。三十年も前のことなのに、あの試験でやらかしたことは悔やんでも悔やみきれない。
――ちくしょう。
買い込んだ安酒も底をつきそうだ。ケチらずにもう一本買っておけばよかった、と思った時にバスが大きく揺れた。バカやろう、もうちっとましな運転はできないのかと思った瞬間、体が宙に舞い視界が回転した。
バスがヘアピンカーブを曲がり切れずにガードレールを突き破ったのだ。まるで万華鏡のように周りの風景が回転して行く。
あちこちに体をぶつけながらも俺は必死に手すりにしがみついていたが、ある瞬間を境にその回転がスローモーションのように遅くなり、そして完全に止まった。
驚愕していると、目の前に若い女性の慈愛に満ちた笑顔が、まるでスクリーンに映し出される映画のように現れた。その女性はまぎれもなく若い頃の母親だ。それからは俺の幼少期の思い出が次々と流れてきた。
――これが噂に聞くパノラマ現象というものか。
ということは、俺は死んでしまうのか。まあいいだろう、どうせ大した人生でもなかったし、悲しむ者などいない。
こうしてみると幼い頃はそれなりの人生を歩んでいたんだ。そしてあの試験で失敗していなければと、これまで幾度も繰り返してきた後悔の念がまたもや浮かんでくる。
気が付くと試験会場が現れていた。忌々しいと思った瞬間、誰かに声をかけられた。
声の方を見ると、バスの運転手がシート越しにこちらを見ていた。
「ここから先を観たいですか」
――観たいものか。ここから先はろくな人生ではない。
この試験会場で俺は痛恨のミスをしたのだ。この試験はマークシート方式で、解答は選択肢を鉛筆で塗りつぶすのだが、その際に焦って間違った行を塗りつぶしていたのだ。そのためその後の解答も全てずれてしまった。解答用紙が回収されるときにそのことに気が付いたのだが、もう手遅れだった。
大変な衝撃を受けた俺は、そのショックから立ち直れず、その後の試験はすべて失敗してしまった。
当然浪人する羽目になった。しかし自暴自棄になっていた俺は勉強もせず、酒や女にうつつを抜かし遊び惚けていた。ついには予備校も自主退学してしまった。そのことはすぐに親にもばれ、勘当同然となった。
それから先は転落の連続である。就職しても長続きはせず、ギャンブルや酒におぼれて借金を積み重ねた挙句、遊び仲間からも愛想をつかされた。今じゃ資源ごみを回収して糊口をしのぐ路上生活者になり果てている。
「ここから先を観たいですかだと? そんなわけないじゃないか、みじめになるだけだ。いっそ早く楽になりたいくらいだ」
「では、人生をやり直せるとすればどの時点からがいいですか」
思いがけない問いかけに俺は前のめりになった。
「やり直せるのか」
「ええ、あなたが望むなら」
「俺はこの試験で解答欄を間違えて不合格になったんだ。やり直すとしたらここしかない。本当にできるのか」
「できますよ」
運転手はいつの間にか俺の目の前に立っていた。
「なぜそんなことをしてくれるんだ。俺はもうじき死ぬんだろう」
「よくお分かりで。私は死者の魂を浄化し再生する仕事をしています。この仕事で大変なのは、強い負の感情を抱いたまま亡くなった魂を浄化することです。これには大変手間暇がかかるのです。それより人生をやり直させる方が楽なのですよ」
「そんなものなのか」
「ええ。それでどうなさいます」
「この試験をやり直す」
俺は間髪を入れずに答えた。そして忘れずにこう付け加えた。
「今の意識をそのまま残してくれ。若いままだとまた同じ間違いをしでかすかもしれないからな」
「お安い御用で」
次の瞬間、俺は試験会場の自分の席に座り、試験問題に対峙していた。
試験開始のブザーが鳴る。受験生が一斉に試験問題をめくる音が会場に充満し、鉛筆が走る音が飛び交っている。
だが俺は鉛筆を握りしめたまま何もできない。新たな後悔の念が胃の辺りに固まって行くのが分かる。社会の底辺をうろついている今の俺には、数十年前の受験知識などこれっぽっちも残っちゃいないことに気付くべきだった。
青い顔で額に脂汗を浮かべている俺を、心配そうにのぞき込む試験員の顔はあの運転手のそれだった。
(了)