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第46回「小説でもどうぞ」佳作 算数 和久井義夫

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小説
小説でもどうぞ
第46回結果発表
課 題

試験

※応募数347編
算数 
和久井義夫

「鶴と亀が合わせて二十匹います。足の数の合計は六十四本です。鶴と亀はそれぞれ何匹ずついるでしょうか」
 小学六年生の幸一は、文章のなかに数字がある問題が苦手だった。苦手というか、できなかった。計算問題はなんとかできた。左から順番に計算していけばいいのだから。 
 こんな文章問題のときは、まず用紙の空白に鳥のような体に足を二本。その横に楕円を描いて、足のようなものを四本描く。あわせて六本の足が、全部で六十四本になるには、二匹ずつで合計十二本、三匹ずつだと十八本……。いや、もっといい解き方があったはず、と思ったところで試験終了の鐘が鳴る。そんな三十年くらい前の夢をよく見るようになった。
 中学入試で算数ができず、母さんの望んでいた私立中学に入れなかった。不合格とわかると、あれだけ熱心でうるさかった母さんも一気に静かになった。それからの幸一は、高校も大学も地元でもあまり知られていない、名前を聞いても誰もが首をかしげるところを受験した。人気がなく、合格率は高いところだ。もう母さんをがっかりさせたくなかった。
 就職できたのは東京の小さな専門商社だった。有名商社と一字違うだけなので、名前を言うと誰でも驚く。でも名刺を渡すと、なあんだ、という目になる会社だった。
 幸一は仕事を頑張っているつもりだが、要領が悪くて夜は遅くなり、土日も家で仕事をすることが多い。接待ゴルフに人数合わせで参加させられると、太った身体で右に左に走り回って笑われる。朝は弱く、ギリギリの時間に会社に飛び込む。他の社員には楽に売れるものも、幸一だけノルマが達成できない。上司からは無視され、気になる後輩の女の子にも仕事が遅いと舌打ちされる。
 人生やり直したい。
 どこからか。それは間違いなく、あの中学受験のときからだ。合格していれば中学、高校でいじめられることもなく、もっといい人生になっていたはずだ。外回りの途中で近くに神社があると、多少遠回りになっても「もう一度やり直しさせてください」と手を合わせるようになっていた。
 今日も雨の中を歩き回ったが注文が取れない。思い切って会社には戻らず、一人住まいのアパートに帰ってきた。途中で買ったコンビニ弁当と六本目の缶チューハイを飲み干し、シャワーを浴びてベッドに入る。雷が鳴りはじめ、こちらに近づいてきているようだ。
 突然、どどん、がしゃーんと部屋が揺れた。このアパートに雷が落ちたのかもしれない。起きるのも面倒で、そのまま眠っていた。
 ふと目が覚めると、天井が板張りになっている。アパートの天井は薄汚れた白いクロス張りだった。ベッドで寝ていたはずが、重い掛けふとんと毛布にくるまっている。懐かしい日向のにおいがした。
「幸一〜 起きなさいよ〜」
 母さんの声がした。あれ、帰省してたっけ?
 幸一はひょいと起き上がった。身体が軽く、手も小さく細い。トレーナーを着て寝ていたはずが、タオル地の青いパジャマを着ている。台所にいくと、トースターからパンを出している母さんがいた。髪は黒く、若い。肌も明るく、シワもほとんどない。
「顔に何かついてる?」
 母さんは幸一に見つめられて怪訝そうな顔をした。
 幸一は首を振った。涙が出そうになる。母さんはあと二十年もすると病気で亡くなる。
「早く顔洗って食べなさい。仕事に行く前に車で送ってくから。受験票忘れないでよ」
 そうだ、今日は私立中学の受験日だ。頭の片隅に十二歳の幸一がいた。父さんは今日も休日出勤で出かけている。
 幸一が小学生の頃、家に帰ると誰もいなかった。裕福な家ではなく、私立で授業料を払えるよう、母さんはスーパーでパートをしていた。塾は高額なので行かず、学校の授業だけ。算数のわからないところはそのままになることが多かった。
 母さんに校門の前まで送ってもらう。まわりのみんなはすごく賢そうに見えた。大丈夫、頭のなかは四十過ぎの今ならできる。これでも大卒だ。つるかめ算など簡単だ。
 最後になった算数の試験が終わった。夢に見たように時間切れにもならず、間違いなく回答できているはずだ。他の三科目も、頭のなかにいる当時の幸一がちゃんと覚えていた。名前も書き忘れていない。
 翌週の合格発表の日まで、幸一は楽しい時間を過ごした。懐かしいテレビを観る。ゲームをしながら指の動きが軽いのに驚く。懐かしい母さんの味をお腹いっぱい食べる。あっという間に時間が過ぎ、いつまでも起きていたいのにすぐ眠くなってしまう。
 結果発表の日。パートを休んで一緒にきてくれた母さんと掲示板を見ると、あった! 百二十一番! 母さんが口に手を当て、目に涙を浮かべて受験票と掲示板を見比べている。
 ああ、よかった。これで三十年後の人生も変わっているはずだ。少しは名の知れた大学を卒業して、もっと大きな会社にいるに違いない。上司には褒められ、女の子には慕われているはずだ。
 ……でも元の世界に戻るには、どうしたらいいのだろう。
(了)