第46回「小説でもどうぞ」佳作 必勝鉛筆 桜坂あきら


第46回結果発表
課 題
試験
※応募数347編

桜坂あきら
試作品の最終テストを明日に控え、何かと気掛かりで深夜になっても研究室を出ることが出来なかった博士は、背中からふいに声を掛けられた。
「大声を出すな。わかったら、ゆっくりとこちらを向いてもらおうか」
研究室には金目のものなど何一つない。博士は言われるままにゆっくりと振り向いた。
見知らぬ男であったが、それほど凶悪な感じはしない。
「どこのどなたか知らないが、ここは研究室で金目のものなど何もない。無駄足になってしまったね」
「金? そんなものには興味はない。私が欲しいのは、これだよ」
男はいつの間にか、博士が心血を注いで作り上げた研究成果を手にしていた。
「あっ、それはダメだ。それだけはダメだ」
研究が実を結んだということを部外者が知るはずもなかったが、実際にこんな男が現れたからには、どこからか情報が漏れたに違いなかった。
「君は誰だね? ライバル社の社員かね? いや、違うな。いまさら他社がこれを製品化しようなどとは考えないはずだ。そもそもこんなものを欲しがる会社はないと思うのだが」
推理に行き詰まった様子の博士に対して、男は丁寧に答えた。
「博士が心血を注いだ研究成果をいただくのですから、お答えできる範囲のことはお答えしましょう。私は、ライバル社の社員でもなければ、これを転売して儲けようと考えているのでもないのです」
「どうやら金儲けが目的ではなさそうだ。では、いったい何が目的なのかね?」
「私自身が使うのです。私は、今週末の国家試験にどうしても合格したいのです。だから、製品化を待ってはいられないのです。申しわけないが、使わせていただきますよ、博士」
男はそう言うと、貴重な試作品を手に持ち、博士には一切危害を加えることなく、研究室を出ていこうとした。
「君、待ちたまえ」
せっかく大人しく出ていこうとした男に向かって、何を思ったか博士が声を掛けた。
「いったい何です。待てと言われて待っていたら、警察が来るではないですか」
「まだ警察には連絡しない。まあ、そう慌てずに少し私の話を聞きなさい」
博士は落ち着いた様子でそう言うと、近くにあった椅子に腰をおろした。
「さあ、君もそのあたりの椅子に座りなさい。君は何か大きな勘違いをして、それを盗みに来たようだね」
博士は立ったままの男に、身振りで椅子をすすめた。男は博士の言葉の意味がわからず、首を捻った。
「勘違いとはどういうことです、博士」
「君は、それを何だと思っているのかね?」
「これは博士が心血を注いで作り上げたという『必勝鉛筆』ではないですか」
男は博士の落ち着いた様子に引き込まれるように、椅子に座った。
「名前はその通りだが、それがどういうものかを聞いているのだよ」
「はあ? 何をとぼけたことを。『必勝鉛筆』と呼ばれるくらいですから、これで回答をすれば、全て正解になる、そういう素晴らしい鉛筆なのです」
男はまるで自分が開発したかのように胸を張った。
「ああやっぱり。どこでどう間違って伝わったのか知らないが、残念ながらそれは誤解だ」
「何が誤解なのです?」
「全てだよ。その鉛筆にそんな力はない。鉛筆は鉛筆だよ。正解を書けば正解に、間違いを書けば間違いになるさ。間違いが正解に化けるわけなど、なかろうがね」
「えっ? そんな馬鹿な。博士はこの鉛筆を作るために生涯を捧げたと聞いていますよ。それがただの鉛筆のはずがないでしょう。騙そうとしたって、そうはいかない」
「嘘じゃない。私がその鉛筆の開発に半生を捧げたのは本当だ。そして、ついに完成したのだ。真に正しい六角形の鉛筆がね」
「はあ? なんです?」
「真正の六角形だよ。木製でありながら、気温や湿度の急激な変化にも耐え、些細なゆがみも生じさせない。開発に随分と時間が掛ってしまったが、ようやく完成したのだ」
「真正の六角形? だから何なのです?」
「いいかね、例えば君が今週末の国家試験のために、何年も何年も、様々なことを犠牲にして必死に勉強したとしよう」
「私はそんなことはしません」
「仮にだ。仮に勉強したとしてだ。その甲斐あって、問題にスラスラと回答できたとして、もうあと少しで合格できそうなくらいに解答用紙が埋まった。だが、最後の最後に、どうしてもわからない問題に出くわした。さあ、君ならどうするね?」
博士は男の顔を覗き込むように尋ねた。答えに詰まった男は、ふと手元の鉛筆を見て、深く考えもせずに言った。
「鉛筆でも転がしますかね」
「そうだ、誰しもそうするに決まっている。さあ、その時に、肝心の鉛筆が偏りのある転がりをしたならどうなるね? 運を天に任せたつもりの鉛筆コロコロが、実は正しい六角形でないとしたら、これはもう悲劇ではないか。そうだろう? だから私は……」
確かに鉛筆の端には1から6の数字が書いてある。これはそういう意味だったのか。
男はとんでもないところに来てしまったと思った。そして、開発秘話の披露に夢中の博士に気づかれないように、静かに実験台の上に鉛筆を返しながら、最後にそっとコロコロした。ちらりと見ると5。
男は思った。五分後にここを出ていくのが、もっとも角が立たないに違いないと。
(了)