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第46回「小説でもどうぞ」佳作 マッハの試験 河音直歩

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小説
小説でもどうぞ
第46回結果発表
課 題

試験

※応募数347編
マッハの試験 
河音直歩

 マッハは満員の通勤電車にしょうがなく体をねじこんだ。睨みつけてきた隣の女性にすみませんと言ったが、まだ相手の目が怖いままなので、しゅんと下を向いた。試験は今日が初日である。きっかけは一通の手紙だった。
「多様性幸福支援制度のお知らせ」と記された封書は四年ぶりに届いた。区内在住者が数十人程度、人間をやめて動物になることができるという試験の案内だ。大方の予想どおり、今回の細胞改造先は鳩だという。これまで、猫、犬、かもめなんかがあり、猫のときは倍率七千倍だったとも聞くが、真相はわからない。法令により試験の内容や結果は非公表とされているし、政治や宗教と同じように、ネットでの発言も規制されている。だからマッハも、叔父が犬になったことをだれにも言ったことがない。というより、それほど親しい人がいないし、いつか友だちができたらいいな、とマッハは思っている。叔父は、元気にしているらしい。「多様性幸福支援制度のお知らせ」と記された通知が、叔父の希望した相手――叔父の兄であるマッハの父、が亡くなってからはそれを継いだマッハに不定期に届くので、知っているのだ。「矢作浩太 心身良好」たった八文字の葉書が、これまで三度、アパートのポストに入っていた。
 人間をやめたいと思うことは、小さい頃からあった。優秀な兄と違ってどんくさく、勉強も運動もだめで、大学をなんとか卒業し、正方形のタオルを売るちいさな会社に入って十年以上になるが、毎朝の通勤電車は息が詰まるし、職場の机は低すぎるし、馴染みの営業先では、気が利かないとか、いつも言われている。犬や猫だと、愛嬌がなければ人間に気に入られないだろうけど、鳩なら飛べるし雑食だし天敵はいないし、マッハは都会っ子だから、こんな自分でもどうにかやれそうだと思っている。
 昨日、役所で出願をしてきた。白衣の人はマッハと面接したあと、「では明日から試験を開始しますので、ふだんどおり日常生活を送ってください」と言った。
 スマホや本に夢中な乗客たちを、マッハはそっと見渡してみる。今も誰かが自分を監視して点数をつけているのだろうか。電車は大きな橋をわたっていく。朝日が眩しい。欄干には、鳩が胸毛を膨らませて眠そうに座っていた。
 仕事は順調で、久しぶりの定時退社になりそうだった。上司も先輩も変な仕事を押しつけてこないし、今日は飛び込み営業もしなくてよいという。マッハはタオルの詰まった段ボールをのんびり整理した。帰り支度をしていると、飲みに行こう、と上司が誘ってきた。しぶしぶ、はい、と答えた。
 とくだん、マッハには話すことがない。赤ら顔の上司は、「仕事はどうだ。たまには愚痴っていいぞ」と言う。本当に話したいこともないので、しょうがなくマッハは、最近見たB級SF映画の話をする。「お前、そうやって笑うのな」と言われ、彼はすこし恥ずかしくなった。「なんかあったら言えよ」と手を振られて帰った。マッハは、もしも悩みを他人に明かしてみたらどんなふうな気持ちになるのか、ほのかな憧れをもって考えてみた。
 翌日もその翌日も、仕事は穏やかだった。どこかに潜んでいる試験官へアピールする目的で、マッハは街中の鳩へパンくずを撒いて歩いてみたり、健康診断を受けて、すこぶる健康なことを確認してみたりした。お医者さんは親切な人で、珍しく雑談が続いた。「どんなお仕事を」と訊かれたので、答える気分になれなくて、躊躇した挙句、「手ぬぐいを売ってます」とマッハは生まれて初めてうそをついた。いけない、この人が試験官かもしれないと思い直して、「すみません、本当はタオルです」と言うと、先生はそうですか、と笑っていた。
 疎遠だった北海道の兄に、マッハは電話をかけた。点数稼ぎではなく、もう電話できなくなるかもしれないという思いからだった。とはいえ、試験のことは言うつもりもなく、これといった話題もないので、またB級SF映画の話をした。しばらくの無言のち、兄は「たまには北海道へ遊びに来い」と言うので、マッハは驚いた。相変わらず不機嫌そうだったが、「声が聞けてよかった」と言われ、「おれも」と言った。
 こんな日々が続くうちに、マッハはよく眠れなくなっていた。試験期間はいつまで続くのか、終了通知が来るまではわからない。まあまあ緊張する。鳩になれたなら、どこを飛ぼうかなと思って、どんどん目が冴える。なんだかいまは、試験のために心と体がいきいきと生かされているみたいで、変な感じだ。犬になった叔父もこういう気持ちだったのかな、とマッハは想像してみる。
 数日後の早朝、誰もいない職場で、デスクに置いた二枚の葉書を、上司が見つめている。一枚は、部下のメンタルヘルス異常を伝える極秘通知だ。
「橋本淳氏は人間終了の意思を表明しました。幸福増進法二九条にもとづき、家族または職場の上長は橋本氏が危険行動を起こさないよう、すみやかにメンタルヘルスの改善を支援してください」
 上司はマッハのことを好きでも嫌いでもない。でも彼の淹れるうまいコーヒーが飲めなくなるのは、残念だなと思う。教えてもらったB級映画は、この週末に観るつもりだ。
 二枚目の葉書を、もう一度注意深く読んだ。短い文章だった。
 長い間、上司は腕組みをしていた。
 やがて、窓を開けた。鳩がすぐそばの枝にとまっていた。彼はじいと上司の目を見つめてから、踵を返して黄色い朝日のなかに飛んでいった。
(了)