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第47回「小説でもどうぞ」選外佳作 しかみ顔のおかしみ 稲尾れい

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小説
小説でもどうぞ
第47回結果発表
課 題

逆転

※応募数347編
選外佳作 

しかみ顔のおかしみ 
稲尾れい

 あれは娘の希枝きえがまだ小学校に上がって間もなかった頃のことだ。得意先からチケットを貰ったのだったか、トリックアート美術館に連れて行ったことがあった。目の錯覚によって平面の絵が立体に見えたり、平らなはずの床が傾いているように感じられたりと、広大な館内には様々な展示があった。そんな中で希枝は、額縁に入った一枚の絵の前に立ち止まり、まじまじと見て言った。
「お父さんに似てるね」
 丸い帽子をかぶったしかめっ面の男が、そこには描かれていた。額に深いしわを刻み、ぎょろりと目を剥き、口を思い切りへの字にひん曲げて、これでもかという程に不機嫌さを主張していた。
 娘には私の顔がこんな風に見えているのか。内心落ち込みつつも「ほら、さかさまにしてごらん」とつとめて明るい声でうながした。額縁には取っ手が付いており、180度ぐるりと回転させて絵の天地をひっくり返すことが出来る仕組みになっていた。
 上下さかさまになった顔は、先程とは打って変わってにんまりと笑みを浮かべていた。額のしわは両端の上がった大きな口に、帽子は首を覆い隠す高い襟に姿を変え、ぎょろりとした目も急に愛嬌たっぷりに感じられる。
「顔、変わっただろう」
 何故かちょっと得意な気持ちで問い掛けると、希枝は「うん」とうなずき、それから「でも、こっちの顔はあんまりお父さんに似てない」と付け加えた。私はふたたびガックリした。

 職場からの帰途につきながらそんなことを思い出したのは、電車の窓に映る自分と目が合ったからだった。握りしめたつり革に体重を預け、しかめっ面をしている。元々強面の自覚はあったが、近年はこんな表情ばかりを浮かべている気がする。仕事の重圧から解き放たれ、疲労を噛みしめながら混み合う電車に揺られて帰る毎日だ。いつでも口の端を上げて機嫌良く生きていられるに越したことはないのだが、それはなかなか難しい。
 一緒にトリックアートを見に行った頃には無邪気にまとわりついてきていた希枝も、高校生となった今は私とろくに言葉を交わすこともなくなった。娘の考えていることなど全く読めない私は会話の糸口が掴めず、顔を合わせてもつい黙りこくってしかめっ面をしてしまう。
「ま、口うるさく干渉するよりは良いんじゃない? それにあの子だって、あなたのことそこまで悪く思ってないわよ」
 妻は軽やかに笑うが、それは自分が希枝と仲良くやれているから言えることなのではないか、とふて腐れた気持ちになった。
「でもさー、そーゆー気持ち、わかるくない?」
 不意に素っ頓狂な声が上がった。見ると扉の前のスペースにブレザー制服姿の男女数人が輪になり、とりとめもなく喋っていた。希枝と同年代だろうか。一旦意識してしまうと妙に気になる。乗降の邪魔になりそうな場所を占領していることも、奇妙な言葉遣いも。
 ワカルクナイ、って何だ。わからない、とか、わかるよね、とか普通の言葉を使えないものか。若者言葉に寛容になれないのは歳を取った証拠だぞ、と心の中で自らをたしなめてみても、彼ら彼女らの間でドッと大きな笑い声が起きると反射的に眉間にしわが寄った。
 電車は間もなく私の乗り換え駅に停まろうとしていた。開くのは学生達が溜まっている側の扉だ。降り際に、非難を込めてひとにらみしてやろうか。大人げない考えがよぎりブンと頭を振る。
 私がつり革から手を離して扉の方へ向かおうとするよりも一歩早く、向かい側からそろそろと移動してくる女性がいた。肩に掛けた布製の大きなバッグを片手で押さえ、もう片手はお腹の辺りに添えられている。ラムネ色のタオル地の抱っこ紐がぷっくりとふくらんでいる。中からは、頬を紅潮させた赤ん坊が顔をのぞかせていた。
 集団の中で一番奥にいた男子が、それに気付いた。「ちょ、そこ、邪魔なるから」扉の真ん前に立つ女子に手振りと共に伝える。やがて電車がホームに停止し、扉が開くまでのわずかな間に、学生達は分かれて扉の両脇に貼り付いた。降り際に会釈する女性と赤ん坊に、皆してちょっと体を縮こまらせたまま会釈を返していた。
 私も電車を降りると、乗り換え先のホームに向かった。先程までの苦々しさが180度ぐるりとひっくり返り、清々しいものが胸を満たしてゆく。奇妙な言葉遣いの若者達が急に頼もしく可愛く感じられ、そんな自分の現金さもおかしい。しかめっ面がにんまり顔に、とはならなかったが、それでも口元がほころんだ。

 家の近くの曲がり角で、丁度帰ってきたところらしい希枝と一緒になった。
「楽しくやってるか、最近」
 先程の学生達への好ましさの余韻から、いつになく気安く問い掛ける。
 希枝は黙ったまま、ちらりと視線を投げ掛けてきた。もしかして今、私は自覚している以上に締まりのない顔をしていて「キモっ」と思われていたりするのだろうか。いつものしかめっ面に戻そうか、と思った時、
「何か今日、そっちこそ楽しそうだし」
 と言い、希枝は少し笑った。
(了)