第47回「小説でもどうぞ」選外佳作 閉じた扉、開いた扉 獏太郎


第47回結果発表
課 題
逆転
※応募数347編
選外佳作
閉じた扉、開いた扉 獏太郎
閉じた扉、開いた扉 獏太郎
「よく頑張ったよね、あたし」
そう言いながら、エミコはキッチンに置かれた卓上カレンダーを手にした。三十歳から始めた介護の仕事も、気付けば三十年になる。
還暦を迎えたら、少しペースダウンさせてもらおう。そう、決めていた。
夜勤もこなし、入浴介助も、朝の体操も、そして沢山の看取りも。休みの日は、各地のマラソン大会に参加して。いろんな思いが、胸にこみあげる。よく頑張ったよね。今日は仕事が休みだ。リフレッシュしたら、明日からは日中だけ勤務のパートになる。カレンダーを戻して、菜箸を手にした。
「よし、仕上げや」
少し焼き目のついた厚焼き玉子を、弁当箱に入れた。今日は、夫とドライブに行く。弁当を冷ます間に急いで身支度を整えた。
楽しい時間は、瞬く間に過ぎた。まもなく自宅へ着く。信号待ちをしている時だった。正面から、猛スピードで逆走車が突っ込んで来た。危ないと思った次の瞬間から、記憶は途切れた。
事故から二年が過ぎた。
エミコは、車いす生活になった。
もう二度と、歩くことは出来ない。
休みの日には、各地のマラソン大会で走っていたのに。
トイレも、入浴も、ヘルパーに手伝ってもらわないと出来ない。
今まで、介助する立場だったのに。
いつも、横で夫が笑っていた。
夫の座っていた場所に、もうぬくもりがないなんて……。
生活のすべてが、逆転した。
ある日、担当のヘルパーから提案があった。
――よければ、出かけてみませんか。
ずっと家に閉じこもってばかりのエミコを、気遣ってのことだった。休みの日に、同行してくれるという。小さな声で「お願いします」と言うと、「次の日曜日はどうでしょう」と、すぐに返事が返って来た。
約束の日、地下鉄で出かけた。ふと視線を動かした時に、映画の予告が目に入った。
――んんっ、ヘレンケラーの映画?
今更、なんでなん……?
映画を観に行きたいとはならなかったが、ヘレンケラーという人物が気になった。
久しぶりのお出かけは、ふさぎ込んでいたエミコにとって、素敵な時間となった。若いころによく行った店も残っていたし、外食も出来た。いつも良くしてくれるヘルパーに、感謝しかなかった。
二か月後、エミコはヘレンケラーの自伝を読んだ。何度も何度も、読んだ。読み進める度に、ある言葉にくぎ付けになった。
〈一つの扉が閉まると、別の扉が開く〉
あの日、人生の扉が閉まった。それから二年が過ぎ、自分の中で別の扉が開き始めている気がしていた。
もう歩くことは出来ない。
でも、手は自由に動く。
介護職員として、働くことは出来ない。
でも、経験したことは残っている。
出かけるなんて、諦めていた。
でも、協力してくれる人がいる。
何も出来ないと諦めるよりも、出来ることを探してみる。そうだ、逆転の発想だ。理不尽な目に遭おうとも、前に進もう!
こうしてずっと殻にこもって泣いていた日々は、終わりを迎えた。
更に半年が過ぎた。エミコは、かつての職場にいた。昼食の前に、体操の時間がある。
「はーい、みなさーん、今日も体を動かしますよぉ~。準備、出来てますかぁ~!」
大勢の施設の入居者を前に、エミコは大きな声を出した。
「じゃあ、深呼吸からね~」
エミコは、今の自分に何が出来るのか、考えていた。少しでも、かつての仲間を助けたい。そう思い、ボランティア活動を始めた。職員の手が届かない部分を、今の自分が出来る範囲で補う。そんな気持ちで始めたが、のちに仕事になった。
今日も家まで、車いすで帰る。
その途中で、ふと空を見上げた。
――あれは、神様からのメッセージかも。
ヘレンケラーの映画の告知は、もしかしたら、自分へのメッセージだったのかも。
理不尽な目に遭おうとも、前に進もう!
と、言われたのかも。
今は、そう思える。
エミコは、家路を急いだ。ヘルパーが来る
時間だ。今度はどこに行きましょうかと、話が進んでいる。さてさて、どこがいいかな。
目の前の信号が赤になった。ふと、エミコは空を見上げた。エミコは空の向こうの夫に、そっと話しかける。
「ねぇ、見てる? 今の私って、どう?」
(了)