第15回のゲスト選考委員は、小説家、エッセイストの椎名誠さん。
ケンカに明け暮れた少年時代から、
衝撃のデビューまでに焦点を当ててみました。
季刊公募ガイドの巻頭インタビューの別バージョンです!
山手のお坊ちゃんが、
あらくれ中学生に
―― 椎名さんはどういうお子さんだったんですか。
俺はお坊ちゃんだったんだよ。親父は公認会計士で、昔は弁護士と同じぐらいのステイタスだった。サイドカー付きのハーレーダビッドソンに乗って仙台袴を着て、袴先生って呼ばれていた。けっこうなお金が入ってくるんでね。敷地の中に剣道場と柔道場を足した建物がある家を買い、そこに家族がいて、戦後の厳しい世の中にあって住まいのない一族郎党がやってきて、小さな体育館のようなところに囲いを作って住んでいた。今の避難所みたいなものだよ。
―― 裕福だったんですね。
お袋は山手の「ざあます」おばさんだから、俺にベレー帽をかぶせて学校に行かせるんだよ。俺はいい子だったから、わけがわからないままベレー帽をかぶって学校に行ったんだけど、周りはベレー帽なんで見たことがないから、「椎名くんは座布団をかぶってきた」と言われてね(笑)。
―― その後、幕張に移転されます。
その頃、犬を飼っていて、パチって名前だったんだけど、代々パチなんだ。パチ1号、パチ2号……親父が会計士だから、そろばんを弾くパチパチから来ている。
パチには苦い思い出があって、千葉の小学校に入った頃、作文を書いたんだ。「パチのこと」ってタイトルで。将来作家になるんだからそこそこ書けていたと思うんだよ。ところが、先生から戻ってきた原稿を見たら赤字で真っ赤。しかも「パチ」を「ポチ」に直してあった。まだカタカナがわかっていないと思われたんだね。少年の心は傷ついたよ。
―― もう少し大きくなると荒れた時代になります。
それを書いたのが、この9月に出版した『中学生あらくれ日記』(草思社)。あらくれといっても中学生だから高が知れているけど、今まで書いてこなかった悪事を全部書いちゃった。
―― 少年時代はケンカに明け暮れていたんですよね。
校庭で凧上げをしていたら凧の取り合いになり、ケンカになったんだが、一撃のうちに倒された。それが最初だね。そのあと、俺は中2のときにリンチにされたんだよ。相手は十何人もいて、ボコボコに殴られた。一対一で負けたときはそんなでもなかったけど、大勢でなんて卑怯じゃん。そのときは相当頭にきて、住所を調べてそいつらのところに復讐に行ったんだ。俺の顔を見てみるみる顔色が変わっていく。それが痛快だったんだよ。
―― 一人一人、全員に仕返ししたのですか。
いや、二人まで。あとはもうできなかった。一人ずつ仕返ししているらしい評判が立っちゃって。でも、それからだよね、ケンカの才能が芽生えたのは。
―― その後も一人でケンカを?
俺と組んで戦う相棒がいてね、ヤクザの息子だったんだけど、強かったね。そいつと二人で戦って悪いことばっかりしていた。
―― 映画みたいな二人組ですね。
一番腕力がある頃って十七、八から二十二、三だよね。ちょうどその頃だよね。そいつと自動車事故を起こしたんだ。東京は雨だったけど、千葉は雪で、それを知らないで、いい気になって夜中の一時ぐらいに飛ばしていたらアイスバーンでスリップして、歩道にあった鉄筋コンクリートにぶつかって、俺は頭を打ち、相棒は腹を打って同じ病院にかつぎ込まれた。看護師は皮が垂れ下がっている俺の顔を見ておろおろしていたけど、俺はアドレナリンが噴出しているから痛くはなく、院長に「これは元に戻るでしょうか」って聞いたんだ。弱々しい声だったんだろうね、院長は「お前は生きるということを考えろ」と。
―― 昔はシートベルトもしていませんし、大惨事ですね。
相棒は腹を切開しないといけなかったんだが、医者は責任になるからしなかったんだな。入院して2日目、真夜中に知らない男が3人入ってきて、女の人もいて、それは相棒のお袋だったらしいんだけど、相棒を担架に乗せて運び出しちゃった。俺はあいつと顔を見合わせて、「俺たちは死ぬなあ、友よさらば」と思った。でも、死ななかったね、お互いに。
仕事も遊び心満載で、
好きなようにやり放題
―― 椎名さんは、高校卒業後に同人誌『幕張じゃーなる』を作り、大学時代には同人誌『斜めの世界』を創刊されています。
最初は高校のとき、沢野(イラストレーターの沢野ひとし)と一緒に作っていたんだよ。「日本切り抜きベタベタ新聞」というの。あるとき、地下鉄のドアに何かが挟まって、乗客が地下鉄を押して隙間ができたとき、車掌が挟まったものをパッと取ったんだけど、そのときの写真を切り抜いて自分の新聞に貼り、キャプションに「テロの地下鉄押し倒し団」と載せたのだが、そうだと思って見ると、もうそれにしか見えないんだよ(笑)。ああいう遊び、好きだったな、パロディーだな。
―― その後、編集者時代に「俺の足」を創刊するんですね。
俺が『月刊俺の足』を作ったら、沢野が全く同じフォーマットで『月刊私の手』を作った。沢野のはけっこう真面目な児童文学に関する雑誌だった。俺のほうは「パンツが行く」というパンツに関する特集を組んだりして、あの無意味さがいいんだ。
―― 遊び心満載です。対照的に本業は流通業界のお堅い業界紙です。
俺が編集長をやっていたときは、売り上げもけっこう伸びたんだよ。百貨店とは関係ない破天荒な企画もやってファンもついた。
―― 流通と関係ない企画をやっちゃったんですか。
俺が創刊させた業界紙もあって、巻頭に小説を書いていたからね。『気違い流通革命』という今では使えない言葉のタイトルで。『アド・バード』も最初は30枚ぐらいで載せた。小説は毎号ではなく、年に2回、盆暮れの特別企画だな。楽しかったな。好きなようにやっていたから。
―― そのときの部下が『本の雑誌』創刊のメンバーの菊池仁さん?
菊池は編集次長だったけど、俺とは同期。明治大学の文学部出身で、もう一人、菊入というやつがいて、そいつも明大文学部。それで新入社員が欲しくなったとき、菊池が「明大文学部出身の知り合いがいる」と連れてきたのが目黒だった。
―― 『本の雑誌』の目黒考二さんですね。
目黒がね、3日で辞めちゃった。すぐ辞めちゃうんだ。飲みに行ったら定期券をいっぱい持っていてね。いろいろな会社を3日で辞めちゃうからね。一応、「返します」と申し出るんだけど、そんなの、返されても仕方ないからね、向こうも「やるよ」となり、何枚も持っている。それで「今日はどれで帰ろうかな」なんて。面白いやつだよ。
無名だった椎名誠が、
いきなり書籍デビュー
―― 『本の雑誌』が生まれたきっかけは?
俺は俺で、先ほど言った『月刊俺の足』を作っていた。ガリ版刷りで、B5判12ページぐらい。沢野は『月刊私の手』で、思えば二人ともパロディーをやっていたけど、目黒が一番真面目で、『目黒ジャーナル』という雑誌を作った。手書きで10 枚ぐらい書評がびっしり書いてあって、これがちゃんと情報が書いてあって実にいいんだよ。それを会社で読んでいたら、会社の人たちも読みたいというのでコピーして配っていたんだよ。最初は5人か6人だったけど、倍増倍増で増えっていって、読者が増えれば増えるほど俺はコピー代を損をしていくんだ。
―― それは痛し痒しですね。
それで購読料をとったらどうなんだということになり、俺も雑誌のプランをどんどん出していって、みんなで原稿を書いて印刷して出版しようということになった。目黒は最初、本当にできるか半信半疑だったけど、昼間は業界紙を作っていたわけだから、そんなのはわけないのよ。で、最初の号はタイトルがまだ決まっていなかったから『本の雑誌』にして、A5判で50ページだったよ。100部しか作らなかったけど、1冊100円で発売した。
―― それは手売りということですか。
書店に直に持っていった。最初はお茶の水の茗渓堂、俺は銀座地区担当だったんで教文館。社長に頼んだら、「普通はやらないんだけど」と言いながらも置いてくれたんだ。いい人だよ。それで目黒と二人で握手して「やったぜ」みたいな。本当、無手勝流でさ。そして『本の雑誌』はだんだん部数を増やしていった。
―― 『本の雑誌』は群よう子さんもスタッフにいたのですよね。
群ようこは経理で入ったんだが、最初は仕事があまりないから電話番。これも縁でね、よく来てくれたよ。会社に行くと、学生アルバイトがごろごろいる。野郎ばっかり。あるとき、学生アルバイトがやかんの上に汚れた靴下を置いて干していたんだよ。これには群れようこが激怒してね。よくやめなかったよね。
―― その後、椎名さんは『さらば国分寺書店のおばば』でデビューします。
情報センター出版局の越山さんが来て、「日本の青年たちのためになるような本を書いてください」と。その頃、『本の雑誌』も出していたし、ストアーズ社で編集長もしていたけど、あまり知られていないのに、なぜか俺のことを知っている人がいたわけよ。
それで原稿用紙で200枚書いて渡した。それが『さらば国分寺書店のおばば』。俺は冗談のつもりだったんだけど、冗談でも200 枚書いちゃうんだからね、力が余っていたんだな。それで日刊現代と夕刊フジの両紙に全面広告がドーンと出たから世間が驚いたわけ。タイトルもよくわからない、出版社も無名、作家の名前も知らない。でも、これが売れちゃったんだ。
―― まだ兼業だったわけですよね。
会社の上役は、俺が社外でそういう勝手なことやってどんどん有名になっていくことが気に入らないのよ。『おばば』が売れて、社員にどんどん知られて、でも、誰も俺に文句を言ってこない。文句を言ったら殴られちゃう。俺はケンカが強かったからね。結果的には自由にやっていたんだ。
―― なんだか昭和です。
でも、兼業時代の最後のほうは、二足の草鞋ではもう間に合わなかったね。会社では取締役になっていたから、本業で社長になる目もあったけど、作家として生きていくことを選んだ。あれは人生の岐路だったな。
応募要項
課 題
■第15回 [ 勘違い ]
よく「勘違い」します。とんでもないのもあります。思いこんでいるせいでしょうか。逆に「勘違い」されることもあります。一番驚いたのは次男(!)を連れて歩いていたら、「奥さんですか?」と言われたこと(笑)。
(高橋源一郎)
締 切
■第15回 [ 勘違い ]
2025/11/9(23:59)
応募規定
400字詰原稿用紙の換算枚数本文5枚厳守(数行の増減は可)。
データ原稿はA4判40字×30行、縦書きの設定を推奨します。
(テキストデータは横書きでかまいません)
枚数が規定どおりか調べたいなら便宜的に20字×20行の設定にし、最終ページを見れば5枚ちょうどかどうかがわかります。
応募方法
WEB応募に限ります。
応募専用ページにアクセスし、作品をアップロード。
(ファイル名は「第15回_作品名_作者名」とし、ファイル名に左記以外の記号類は使用不可)
作品の1行目にタイトル、2行目に氏名(ペンネームを使うときはペンネーム)、3行目を空けて4行目から本文をお書きください。
本文以外の字数は規定枚数(字数)にカウントしません。
作品にはノンブル(ページ数)をふってください。
応募点数3編以内。作品の返却は不可。
Wordで書かれる方は、40字×30行を推奨します。
ご自分で設定してもかまいませんが、こちらからもフォーマットがダウンロードできます。
応募条件
作品は未発表オリジナル作品に限ります。
入賞作品の著作権は公募ガイド社に帰属します。
AIを使用して書いた作品はご遠慮ください。
入選作品は趣旨を変えない範囲で加筆修正することがあります。
応募者には公募ガイド社から公募やイベントに関する情報をお知らせすることがあります。
発 表
第15回・2026/1/9、季刊公募ガイド冬号誌上
賞
最優秀賞1編=Amazonギフト券1万円分
佳作7編=記念品
選外佳作=WEB掲載
※最優秀賞が複数あった場合は按分とします。
※発表月の翌月初旬頃に記念品を発送いたします。
配送の遅れ等により時期が前後する場合がございます。
お問い合わせ先
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