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第48回「小説でもどうぞ」選外佳作 味のないパン 石井木子

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小説
小説でもどうぞ
第48回結果発表
課 題

孤独

※応募数439編
選外佳作 

味のないパン 
石井木子

 妊婦は孤独だ。病室の窓に打ちつける雨の雫を眺めながら、私はため息をついた。妊娠八ヶ月。ここまでの道のりは本当に長かった。
 三年間の不妊治療を経てようやく妊娠したが、酷いつわりで、毎日食べては吐いてを繰り返した。やっと安定期に入り、会社に産休、育休の報告をしてからがさらに大変だった。満員電車での出社。連日の残業。つわりのぶり返しで一日何度トイレへ走ったことか。なんとか最終出勤日を迎え、ようやく一息つけると思った矢先に、切迫早産で緊急入院。動くと母子ともにリスクがあると言われ、トイレと週に一度のシャワー以外、ベッドで寝たきりの生活が始まった。旅行や美容院など、子どもが産まれる前の最後のささやかな贅沢は全てキャンセルだ。夫は仕事で忙しく週末にしか来られないし、田舎の高齢の両親を頼るわけにもいかず、私は一人で不安を抱え、つらい毎日を過ごしていた。
 しかし何よりも耐え難いのは、病院食だ。水っぽいご飯に、味の薄いおかず、そして全く味のしないパン。とりわけこのパンを食べるのが一番の苦痛だった。しかしこの味のないパンは必ず毎食出てくる。最初の一週間は我慢して食べていたが、そのうち吐き気すら覚えるようになり、私はこっそりちぎって窓の外に捨てるようになった。
 今日も食事が来ると、私はいつものように窓を開けて、その隙間から味のないパンを外に捨てた。しばらくすると、ニャーと鳴き声が聞こえた。外を見ると、先程捨てたパンをやせ細った白い猫が必死にかぶりついている。
 私は窓から顔を出した。
「おいしい?」
 猫はニャニャッと短く鳴いて、愛らしい顔でこちらを見上げた。
 その日以来、その猫にパンをやるのが日課になった。私は猫をマルと名づけ、毎食後マルにパンを与えるのが、病院での単調な日々の唯一の楽しみとなった。
 マルはすっかり私になついて、私は病院での生活がいかに淋しく、苦しいかを猫相手に熱弁した。
「夫は仕事ばっかりでね。友達も仕事や育児で忙しくてお見舞いに来てくれないし。何より病院食がまずくて仕方ないのよ」
 もちろんマルに話が通ずるはずもないが、まるで「よく分かるよ。大変だねえ」と私の話に同情するかのように、物憂げな顔でニャーッと鳴いてくれるのだ。
「マルは気楽でいいね。自由に外の世界を謳歌できるもんね」私はマルを羨ましく思った。「マルになりたいよ」ふわふわの毛を撫でながらそう呟いた。
 私はマルを病室に招きいれるようになった。マルはとてもおとなしく、誰かが入ってくるとベッドの下に隠れているので、気づかれることはなかった。

 ある日不思議なことが起こった。私がシャワー室から戻ると、病室の中から笑い声が聞こえるのだ。不審に思いドアを開けると、ベッドの上にマルが気持ちよさそうに丸まっていて、私の担当医がマルに向かってニコニコと話しかけている。そして私に気づくと、何事もなかったかのように軽く会釈をして出ていった。
 なんだろう今のは。不思議に思いながらも、マルを病室に連れ込んでいることにお叱りを受けなかったので、私はほっとしながらマルを抱き上げて、窓の外に出した。パンを与え続けているからか、マルは以前よりだいぶふっくらとしていて、その重みに少し驚いた。
 その日以降、同じようなことが続いた。私が診察やトイレから戻ると、マルがベッドの上にいて、助産師や清掃スタッフと楽しげに話しているのだ。もちろんマルはニャーと鳴くことしかできないが、はたから見ると楽しく会話しているように見えた。そして私が来ると、みんな何ごともなかったかのように病室をあとにするのだ。
 一ヶ月ほどしたある日のことだ。目が覚めると私はなぜか病室の窓の外に立っていた。驚いて窓越しに中を覗くと、マルがベッドにいる。いつの間にか、出会った時よりかなり丸みをおびている。特にお腹が異様に膨らんで見えるのは気のせいだろうか。
「マル、私よ! 中に入れて!」
 ドンドンと窓を叩いたが、マルはこちらを振り向かない。しばらくすると、助産師たちが慌ただしく病室に入ってきた。窓の外の私には全く気がつかない様子で、マルをベッドごと部屋から運びだした。何が起こっているのか分からず私はパニックになった。

           *        *

 ベッドに横たわった私を、助産師さんが優しく声をかけながら、分娩室に連れてきてくれた。
「何も心配はいりませんよ」
 お医者さんも心強い言葉をかけてくれる。院内はあたたかくて快適だ。雨に打たれることもない。彼女の夫も飛んできてくれた。私をはらませた後すぐどこかに消えたあの雄猫とは大違いで、彼は私の手を握り愛情たっぷりに励ましてくれる。私のことをすっかり妻だと思い込んでいるようだ。彼女の両親も遠方からかけつけてくれた。育児放棄をした私の親とは雲泥の差だ。でも、これからはこれが私の家族。なんて優しい家族。整った設備に、絶対的安心感。おまけに毎日おいしいパンも食べられる。
 こんなに恵まれているのに、彼女はなぜあんなに文句を言うのだろう。これのどこが孤独だというの。私は、窓の外で半狂乱になって騒いでいる彼女を見て見ぬふりをした。これから彼女は出産できる場所を一人で探さねばならない。室外機の近くが温かいと教えてあげてもよかったな。いや、もう入れ替わったのだから関係ない。そもそも私になりたいと願ったのは彼女の方だ。
「さあマル子さん、いきんで!」
 みんなに見守られる中、私は可愛いふわふわの六つ子を産んだ。
(了)