第48回「小説でもどうぞ」佳作 孤独なおばあさんの話 ナラネコ


第48回結果発表
課 題
孤独
※応募数439編

ナラネコ
玄関のチャイムを鳴らす時、気分が重かった。「訪問介護ステーション 心の園」で働き出してから十五年、ホームヘルパーとしてはベテランの域に達している私だが、はじめての家を訪れる日には緊張する。まして、この日の利用者は特別だった。
安田芳江という、そのおばあさんは気難しく口うるさいことで知られ、担当ヘルパーが次々と音を上げ、五人も代わっていた。そこで経験豊富な私が、六人目の担当として指名されたのだった。
「どなたですか」
インターホンから不機嫌そうな声が聞こえる。
「今日から担当になります、ヘルパーの水原です」
返事はなく、ややあって人が出てくる気配があり、玄関の戸を開けておばあさんが顔を出した。足が悪いらしく杖をついている。すっかり白くなった髪はぼさぼさで、身なりを気にする余裕もないようだった。
「どうぞ」
そっけなく言うと、家の中に戻っていく。足元がおぼつかない。上り口の段差があるので介助しようと声をかけると、
「一人でできるよ。やってほしけりゃこっちから言う」
にべもなく、はねつけられた。
安田さんの家には、生活に必要な最低限のものしか置かれていない。おそらく部屋に花を飾ったこともないのだろう。彼女はずっと独身で身寄りもないという。殺風景な部屋は、そんな孤独な老婆の荒んだ心を表しているようだった。
仕事が始まると、案の定、安田さんは私を手こずらせた。掃除の仕方から洗濯物の畳み方、扉の開け閉めに至るまで、私のすることすべてに注文を付け、些細なことにも文句を言う。口うるさい人には慣れていたが、私がどんなに気持ちを込めて対応しても、まったく態度が変わらないのには心が折れそうになった。
そんなある日のことだった。私が安田さんの部屋にある埃だらけのタンスを拭こうと、引き出しを開けたら、すき間に挟まっていた一枚の白黒写真が畳の上に落ちた。拾い上げて手に取ると、そこには少し照れくさそうな表情を浮かべた長身の若い男性と、ぴったり寄り添って微笑む可愛らしい女性が写っていた。
「何を見ているんだい」
いつの間にか安田さんが後ろに立っていた。
「すいません。掃除していたら、すき間から落ちてしまって……」
安田さんはその色あせた写真を受け取ると、こう言った。
「その写真、誰だと思う?」
「……」
「私と、私の昔の恋人だよ」
安田さんの口から思わぬ言葉が出てきたので、私は驚くとともに戸惑った。しかしその時の安田さんの口調は、いつもと違い穏やかだった。
「一緒に暮らして、結婚の約束までしていた。でも、交通事故でね……」
安田さんの声は、過ぎ去った日々を慈しむように響いた。私は恋人を亡くした安田さんを不憫に思うとともに、彼女の人生に幸福なひとときがあったことを知り、救われたような気持ちになった。
その日から、訪問するたびに、安田さんの亡き恋人との思い出話を聞くのが私の日課となった。二人の出会い。貧しいが笑顔あふれる幸せな日々。安田さんの表情は和らぎ、私と安田さんとの間には、仲の良い親子のような親密な空気が流れるようになった。
しかし一方で、私は彼女の語る昔話に、つじつまの合わないところがあることに気づいていた。話に出てくる場所や人の名前が、前に聞いていた時と違っていたり、出来事の順番が変わっていたり。年齢を重ねると、記憶が定かでなくなることはあるが、あまりにも矛盾が多すぎた。そして、安田さんの言う幸福な日々が本当にあったのかという疑問が湧いてきた。ひょっとしたら、写真の男性はまったく関係のない人で、恋人の存在自体が作り話ではないだろうかと。
だが、私は安田さんの話に耳を傾け、相槌を打ち続けた。なぜなら、私と話す時の彼女の表情が生き生きとして、この上なく幸せそうに見えたからだ。
そのうちに、安田さんは持病であった心疾患で入院し、私が家を訪ねることはなくなった。そして秋が深まる頃、静かに息を引き取った。
数日後、遺品を整理する中、私宛ての手紙が出てきたということで、事務所に封筒が送られてきた。手紙には、ヘルパーとして世話を受けたことに対するお礼を述べた後、こう書いてあった。
「水原さん、あなたが私の嘘に気づいていながら、知らないふりをして話を聞いてくれた優しさに感謝します。あの写真の女性は私です。でも、男性は恋人ではなく、私が勝手に思いを寄せていた人です。就職のため故郷を離れて上京するというので、思い切ってお願いして、一緒に写真を撮ってもらったのです。本当の恋人のように写っているのが嬉しくて、昔は時々出して眺めていたのですが、老いぼれてしまってからは、ずっとタンスの引き出しに入れっぱなしになっていました。でも、水原さんが見つけてくれたのがきっかけで、青春が戻ってきたような気持ちになって、思わず嘘をついてしまいました。あなたが気づいているなと思いながらも、話している時間が楽しくてずっと。あなたに聞いてもらうと、話したことが、本当に起こった出来事のように思えてくるのです。あなたと過ごしたひとときは、私の人生でいちばん幸せな時間でした。ありがとう」
彼女は人生の最後に、孤独から抜け出すことができたのだ。
「よかった。あなたの人生に寄り添うことができて」
私は心の中で、そうつぶやいた。
(了)