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【無難なエッセイから脱却しよう】恥ずかしさを捨てきれない人へ! 自分の恥をも書けるようになるメンタル術6選

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【メンタル編】凡作にしてしまう殻を打ち破れ

自分を書くエッセイでは、ある程度は身を切る覚悟が必要。殻が何かを知り、殻を打ち破る術を考えよう。

藤原正彦インタビューに学ぼう! 
当たり前のことは退屈、死んでも書かない

——内面をさらけだすのが恥ずかしい人はどうすれば?

すごくシャイで、気持ちに抑制がかかっている人にはいいエッセイは書けません。どんな失敗をして、どんな屈辱を受けて、どんな劣等感にまみれたか、ある程度はそういうことも書かないと読者を引っ張れません。英語でエクシビショニスト(自己顕示家)と言いますが、自分をさらせる人格でないと文章を書くことは難しい。

——至極、常識的なことを書いてしまう人はどうすれば?

当たり前のことが一番退屈。それは死んでも書かないと思うこと。誰にとっても正しいことは書いても仕方ない。私は数学者ですから、いつも独創ということを考えていました。数学は、古今東西、一度も出たことがないものでないと論文になりませんから。

——随筆も人と違うことを書く?

随筆は自分ならではの経験、事件を自分だけの感性で書く。安岡章太郎はある随筆の中で、耳が聞こえなくなって耳鼻科に行ったら耳くそを取ってくれ、そのときの感じを「左耳から右耳に風が吹き抜けた」と書いています。似たような経験は誰でもしていますが、感受性がないとつかまえられない。この感覚を磨くことがよい随筆を書くための条件になります。

書くときに立ちふさがる2つの殻

一読して、「だめだ」と思ってしまう作品がある。決して下手ではないが、何も響いてこない。何か大きな殻があり、何も伝わってこない。そうした殻は大きく分けて左記のように2種類ある。

自分を見せたくないという殻

性格的にはシャイで、内面を出してしまったら笑われると必要以上に恐れる。親しい人にはさらせるが、そうでない人には心の底は見せない。不特定多数ならなおさら。内面を守ってくれる鎧が、自分を見せたくないという殻の正体。

常識的でいいという殻

この常識は社会的常識という意味ではなく、ありきたりで、当たりさわりがなく、常識の範囲を出ない内容という意味。そのほうが批判されることもなく、型どおりに無難に終われていい。そう思ってしまう気持ちが常識的でいいという殻。

身を削って書いた 渾身のエッセイ3選

中村うさぎ『あとは死ぬだけ』(太田出版・1400 円+税)

作家デビューし、買い物依存症になり、整形をし、女の価値を確かめるためにデリヘル嬢も経験した作者が、これまでの人生で感じたことを洞察したエッセイ集。

中島らも『中島らもエッセイ・コレクション』(ちくま文庫・950 円+ 税)

広告会社のコピーライター、劇団リリパットアーミー主宰、小説家、エッセイスト。酒と薬物に溺れながらひねくれたユーモアを発揮した中島らものエッセイ集。

西村賢太『小説にすがりつきたい夜もある』(文春文庫・630 円+税)

父親が性犯罪でつかまり、中学生のときに家庭が崩壊。港湾労働者をしていたこともある作者が、芥川賞受賞後に出版した文学的情熱にあふれたエッセイ集。

自分を見せたくないという殻を打ち破ろう!

評価されれば、自信も意欲もわく

池波正太郎『日曜日の万年筆』の中に、「小説の中では、いくらでも裸の自分を見せることができるのに、随想となると(中略)自分の素顔を見せて、それが果して他人が読むにたえるものとなり得るだろうかと、おもう」とある。

自分をさらけだせるのは生まれつきの人格によることが多く、書く能力とは別ということだ。

この殻を打ち破るには、誰か1人でも自分を評価してくれる人がいること。そうすれば自信が持て、書くことをあと押ししてくれる。

自分を見せるなんて恥ずかしいという人も書けるようになるメンタルの持ちよう

過剰な自意識は捨ててしまおう
さほど恥ずかしがるようなことでなくても過剰に反応してしまう。周囲はそれほど関心がないが、本人は反応が怖くて必要以上に気にしてしまう。このタイプの人は心のどこかで「誰も読んでいない」と感覚的に思う必要がある。

雑念を捨てて書くことに集中
書きながら、「こんなことを書いたら知人に笑われそう」とか、「親が読んだら泣きそう」「世間のひんしゅくを買いそう」などと考えると余計に書けなくなってしまう。恥ずかしいとか考える暇もなかったというくらい集中しよう。

発表はしないつもりで日記のように
自意識も捨てきれず、雑念も捨てられない人は、「いざとなったら原稿を捨てればいいのだから」と考えてみよう。誰にも読まれない日記でも書くつもりでエッセイを書けば自分を出しやすい。公表するかどうかあとで決めればいい。

大恥が無理なら小さいことから
恥ずかしいと思うのにも程度がある。いきなり全裸で人前に出るようなことはできないが、プールサイドに水着で行くことならできるだろう。この恥は書けそう、このメディアになら書けそうのように分け、段階的に慣れていこう。

いざとなればペンネームを使う
公募の場合は、ペンネーム可ということも多い。ペンネームでは承認欲求は満たされにくくなるが、作者があなたであるという事実は隠せる。ある意味、ペンネーム自体が殻。これがあなたを本物の殻から出してくれるはずだ。

あなたの文章を読みたい人もいる
あなたは恥ずかしいと思うかもしれないが、読む人は「恥ずかしい人だ」とは思わず、笑ってくれる。「私だけじゃないんだ」と共感し、「素晴らしい」と感動してくれることもある。殻を破らないとこの栄誉と感激は味わえない。

恥ずかしさを軽減する2つの方法

自分を他人と見る

生身の自分を書いていると思うと恥ずかしさがよみがえってくるが、自分という登場人物がいて、その人物を他人として見ると書きやすい。小説ではないのでウソは書けないが、構造は一人称小説と同じ。作者である私が、登場人物である私を語っているという形だ。

このとき、「このエッセイには価値がある」と思えると、誰かに読んでもらいたい気持ちが羞恥心を抑えてくれる。

面白おかしく書く

戯画化、つまり、自分を面白おかしく笑い飛ばすように書くこと。自分を笑うということは、上記と同じで、やはり自分を客観的に見ている。だから、やりやすい。

自分自身は観客の位置にいて、「バカだねえ」と自分を笑っている。自分も観客として笑いたいから、手加減なくありのままに自分を出せる。このとき、読者が笑ってくれるところを想像できると、うれしくなって羞恥心を忘れる。

常識的でいいという殻を打ち破ろう!

小さくまとまってしまうパターン

殻が破れていないと思う1つのパターンに、義務教育時代に書いていた作文の書き方がある。いわく、「お年寄りに席を譲れませんでした。次回は勇気を出して声をかけたいです」式のもの。宿題では満点でもエッセイでは0点。

もう1つのパターンは、投書にありがちな正論。「ゴミは持ち帰ろう」などは投書欄では採用されるかもしれないが、エッセイではどうか。人とは違う題材、違う感覚を書き、正論を書く場合も真正面からは書かないようにしよう。

書くときに妨げとなる2つの常識

常識的内容
常識的内容とは、書かれていることが常識の範囲を出ないというもの。たとえば、「家族で旅行に行った。やはり国内旅行はいい」といった言い尽くされた感想や、「日曜日の朝の散歩は気持ちいい」といったようなありきたりの日常を書いたもの。この内容で人を共感、感動させるのは至難の業。

パターンを抜け出すには?
感想や日常を書いてもいいが、そこに自分なりの何かを加えよう。それは以下の2つ。1つは、自分なりのものの見方、感じ方。もう1つは題材についての深い洞察や知識。これを得るために、「なぜ、なぜ」と考えてみよう。

創作的常識
創作的常識は「こう書くべき」という作法。いわく、「起承転結で書け」「結論は明確に」「文章は論理的に」。間違いではないが、起承転結でない文章もあり、結論を読者に預けた作品もある。また、文芸には論理的でない部分があり、「古池や/蛙飛び込む水の音」は上五とそれ以降に論理的関係はない。

パターンを抜け出すには?
矛盾する2つのことをする必要がある。まず、書く前に綿密に計画を練る。これは頭の中でやってもよい。そのうえで、計画したことは忘れ、筆の流れに任せて即興で書く。前者だけだと自由さがなく、後者だけだと書きあぐねる。

常識に斬りかかり、返り討ちにあわないようにするには?

非常識を書く場合

当たり前のことを書いてもつまらないと奇をてらい、「人を殺してもいい」と書いたとしよう。ただ単にそう書いてはひんしゅくを買うだけ。書いた理由や根拠が必要だ。

たとえば、「『人を殺してもいい』が是か非かと言われれば非だが、完全な非ではない。なぜなら死刑制度があるから」のように続けるのであれば理解できる。非常識を書くときは、軽く反論されて終わるような内容では自滅する。

形破りをする場合

ときどき、文章作法を逆手にとったような作品が送られてくることがある。たとえば、擬音を使いまくった作品や、センテンスに切れ目がなく、作品自体が一文という作品とか。シナリオのようにすべて現在形で書いた作品もあった。

やるのは自由だが、問題は効果。型破りなことをやって、結果、効果がないのであれば、定番の作法どおり書いたほうがよかったということになる。結果が伴わないと型破りにした意味がなくなる。

※本記事は2021年1月号に掲載した記事を再掲載したものです。