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W選考委員版「小説でもどうぞ」第1回 佳作 引用御免/栃の嵐

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
「引用御免」栃の嵐
「居場所は探したって見つからない、自分で作らなきゃ」、そう言って鷺沢萠は自殺した。自殺とは“現実の自己”と“あるべき自己”との間に、耐えがたい距離が出来てしまったとき、“現実の自己”を殺して“あるべき自己”を証明しようとする行為だと、磯田光一は解説した。「異邦人」の主人公は「人生が生きるに値しない、ということは、誰でもが知っている。結局のところ、三十歳で死のうが、七十歳で死のうが、大した違いはない」と言って、裁判で上訴せず処刑される。「悪霊」のキリーロフは「神は必要だから存在するはずだ」「ところがぼくは、神は存在しないし、存在しえないことを知っている」「きみにはわからないのかな、これ一つだけでも自殺に値するということが?」「人間がしてきたことといえば、自分を殺さずに生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。」と言って自殺した。たしかに人生は生きるに値しないかもしれない。藤森かよこが「馬鹿ブス貧乏な私たちを待つろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください」で書いているように反出生主義、生まれてこないほうがよかったということだ。でも
〈若者は若きことこそ幸いなり〉
 なんだよ。若者は若い時にそこに気付かないものだ。俺はこの世にいなくてもいい存在、余計者だという意識を持ちがちだ。それを書いた作品がツルゲーネフの「ルーヂン」、プーシキンの「オネーギン」、ゴンチャロフの「オブローモフ」、谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」。
 でもあまり理想をおってもしょうがないぜ。「自分が軽蔑する人間になり切らねばならない」中原昌也。「天下になくてはならぬ人になるか、あってはならぬ人となれ」河合継之助。「欠点を改めるよりむしろ、欠点を伸ばすように心掛けましょう。」稲垣足穂。
 またムージルが「特性のない男」で描いたのは、われわれの生活だと主張するすべてのものに対して夢想的な軽蔑心を抱いている男で、実利的、合理的な現実社会からみれば、まさしく無益な男だ。それゆえ彼は、この実社会では待機の姿勢をとるより仕方ない。だから俺もムージルにならって今は雌伏し、雄飛のときを待っているのだ。待っていろ、俗世間。そう、俗世間を軽蔑し、その軽蔑する俗世間から認められたいという、この矛盾した感情、もやもやとした気持ち。これを吐き出すのが芸術なのだ。芸術とは、バカな奴が死にものぐるいで自分の居場所を広げる行為だと神足裕司は言ったものだ。
 しかし俺は今認められるための行動をなにも起こしていない。オスカー・ワイルドは全然何もしないのが世界中でもっともむつかしいことなのだ、もっともむずかしくてもっとも知的なことなのだと言った。俺は今それに挑戦している。なにかをするとは、実存を創造することだ。そう実存主義。俺は普通の連中とは違うんだという意識。身分、財産、知識でなく、お前らとは生きざまが違うんだという、精神の貴族。これが俺なりの実存主義の解釈だ。そう、俺は精神の貴族だ。貴族とは何か。ニーチェいわく、「外界を必要としないもの」「行動を起こすために
外的刺激を必要としないもの」。つまり、何よりも無垢に、直接的に、自然発生的に、彼自身の「内部」からこみ上げてくる衝動に完全に身を任せるもののことだ。
 またドン・キホーテは言っている。天から授かったもので、なにが貴いといって、自由ほど貴いものがあろうかと。だから俺はそのもっとも貴い自由を満喫している。マルト・ローベルはドン・キホーテについて、「彼にはあきらかに才能があって、しかし彼はその才能を利用しなかったので、五十年におよぶ生涯のあいだ、自分がありえたであろうものと、現にあるものとのあいだに溝を深めつつあった」と述べた。
 おっとこんな時間か。
「問題―時間を無駄にせぬためにはいかにすべきか。答え―時間の長さを残りなく味わうこと。方法―日々を歯医者の待合室ですわり心地の悪い椅子に腰掛けて過ごすこと。日曜の午後を自分の部屋のバルコニーで暮らすこと。自分にわからない国語で行われる公演を聞くこと。最も長くかつ最も不便な汽車の旅程を選び、もちろん立ち通しで旅行すること。劇場の切符売り場で行列に並び、しかも切符を買わないこと、等々……」。コロナでまたベストセラーになったカミユの「ペスト」からの引用だ。じゃあな。

 ビルの屋上で出会った見知らぬおっさんの長い演説(説教?説得?)を聞いて俺は、飛び降りるのをやめた。
(了)