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第8回「小説でもどうぞ」佳作 鈍痛/獏太郎

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第8回結果発表
課 題

うそ

※応募数327編
「鈍痛」獏太郎
 高野ちひろは、高齢者のリハビリ施設で勤務している。製造業から転職して、気づけば五年が過ぎていた。今朝も利用者のスエが、スタッフを困らせている。精神的に不安定になっている日が続いていた。出勤したばかりのちひろが近付く。過呼吸を起こしかけていた。目が完全に座っている。
「スエさぁ~ん、ゆっくり呼吸してみよか」
 スエの肩が大きく上下している。
「スエさぁ~ん、ゆっくり息して~」
 少しずつ、スエの呼吸が落ち着いて来た。看護師が、朝の薬とお茶を持って近付く。ちひろは、うなずいて受け取った。
「スエさん、ほら看護師さんが薬持って来てくれたわ。これ飲んだら落ち着くで。はよ効くように砕いてくれてるわ」
 スエは、ちひろの方へ視線を動かした。いつも朝食時に飲む認知症の薬で、粒状では中々飲んでくれない。わざと砕いている。
「ありがとう」
 ちひろはスエの口の中に薬を入れて、お茶の入ったコップを差し出す。スエはあっという間にお茶を飲みほした。スエはコップを見ながら口を開いた。
「みんな、ウチを嫌ってるんや」
「そんなことないで」
 スエは顔を上げた。
「みんな、嘘しか言えへんしな」
 〈嘘〉という言葉を聞くと、ちひろの胸に鈍痛が走る。

 昼食を食べると、昼寝を始める利用者は多い。そんな中で、スエはポツンと置き去りになる。スエは足を使って、上手に車いすを動かす。今日も静かになったフロアで、車いすを動かしている。エレベーターホールへと向かっているが、ドアが立ちはだかる。ドアハンドルをガチャガチャと動かすが、ドアは開かない。視線に入らない位置に、鍵がある。音がドンドン大きくなる。最後はドアを思い切り蹴って、しょんぼりして、いつも食事をするテーブルへ戻って来る。今日も、いつもと同じだ。スエはリハビリをしても、自宅へと戻ることはない。終の棲家となる施設の空きを待っている状態だ。スエは毎日、夕方には〈帰る〉と言う。スタッフはあれこれ理由をつけて、今日は泊りだと返答する。するとスエは不機嫌になる。ご飯を準備せなあかんねん! と、怒り始める。
 今日の午後のスエは、おとなしかった。窓の外を、ぼんやりと眺めている。ちはやがスエの横に座った。
「何か見えるん?」
「雪、降って来てるわ。ウチも雪かきせなあかんやろ。帰るわ」
「舞鶴行きの電車は雪で止まってるで」
「ホンマかいな!」
 スエのふるさとの舞鶴は、朝から雪と天気予報で言っていたが、鉄道が運休するほどではない。
「はぁ~、ほなあかんな。あんたが言うんやから、嘘やないやろ」
 スエさん、ごめんね。ちはやは、心の中で謝る。スエは言葉を続けた。
「ここにいてるのは、みんな嘘ばっかり言いよる。ほんでウチを殴ってくるんや。そやけどな、あんたのことだけは信じられるねん」
 以前、仲のいいスタッフから言われたことがある。スエさんは、黙って話を聞いてくれる高野さんを心から信頼している、と。
「みな、ええ人ばっかりやで」
「ううん、あんただけやはええ人や。ウチ、わかってるねん」
 ちひろは、スエの言葉を複雑な気持ちで聞いていた。帰宅願望が出ると、あれこれ嘘をついてなだめてきた。ウチも噓つきやねん。嘘をあたかも事実のように言う時に、胸に鈍痛を感じる。
「ウチの息子、もう学校から帰って来たかな」
「そろそろ帰るかな」
「うわっ、サツマイモふかしとかな!」
「用意しといたで」
「ホンマか! ありがと」
 スエは息子の話になると、本当にいい笑顔になる。実際の息子には小学生の子供がいて、早く施設に入ってほしいと言っていたと、聞いたことがある。スエは、途切れることなく、息子の自慢話を続けた。スエの心の中にいる息子は、中学生のままだ。それでも否定することなく、ちひろはその話に黙って付き合う。
 夕方近くに、スエが家に帰ると言い出した。ちひろが近付く。
「舞鶴行きの電車は雪で止まってるで」
「ホンマかいな~。ほな明日の朝やな、帰るのは」
 ごめんね。ちひろは今日も鈍痛を感じながら、心の中で謝る。
 ウチはいつか、嘘をついても胸が痛まなくなるんやろか……。
 そうは、なりたくない。
(了)