第8回「小説でもどうぞ」佳作 佐々木さんの猫/秋あきら
第8回結果発表
課 題
うそ
※応募数327編
「佐々木さんの猫」秋あきら
佐々木さんから初めてその話を聞いた時、僕は自意識過剰にも、それは佐々木さんが僕を自分の部屋に呼ぶための嘘じゃないかと思った。賢い彼女が、そんな下手な嘘をつくからには、他に理由があると思ったのだ。
「嘘じゃないわよ、鈴木くん。本当に、その猫、動いたのよ」
「へえ。それが本当なら、ぜひとも見てみたいですねえ」
僕は、その嘘にとびついた。
「あら、いいわよ。じゃあ、今晩にでもどう?」
そう言われて、僕は顔がにやけるのを止められなかった。
「喜んで」
僕の返事に、佐々木さんも優しく微笑した。
総務の佐々木さんは、僕より三年先輩の三十五歳。美人だし、聡明で後輩の面倒見も良い。彼女をねらっているという同僚の話は、何度も耳にした。かく言う僕もその一人だったが、どうせ無理だと諦めてもいた。
その佐々木さんが、半年前、急におかしくなった。仕事中もぼんやりすることが多くなって、ミスを連発した。いきなり泣きだしたかと思うと、今度は怒りだす。とにかく精神状態が不安定になった。そのうち会社を休むようになり、とうとう休職した。どうやら恋人と別れたようだと皆が噂した。
三か月程して戻って来た佐々木さんは、元気そうに見えたが、どこか影があった。やっぱり何か複雑な事情があるのだ。そう察した同僚たちは気を使って、彼女と距離を置くようになった。僕にやってきたチャンスだった。
別々に退社した僕たちは、佐々木さんの最寄り駅で待ち合わせた。
「よかった、来てくれて。来てくれないんじゃないかと思っていたのよ」
「まさか」
僕は心底驚いたふりをした。
「だって、パソコンの背景にしている写真の猫が動きだしたなんて話、普通信じないよね」
佐々木さんは俯いたままだ。
「……ほら、この頃みんな私のこと避けているでしょ。こんな話を聞いてもらえるの、鈴木くんだけなのよ」
僕は、心の中でガッツポーズをつくった。
佐々木さんの住まいは、駅から徒歩十五分の三階建ての低層マンションだった。リビングに通されて、驚いた。
中央に置かれたガラステーブルの上に、開いたままのノートパソコンが乗っていた。勿論、電源も入っている。画面の中で、香箱を組んだ黒猫が、黄色い目をこちらに向けていた。猫のことは口実だと思っていたから、まさか本当にパソコンが用意されているとは思わなかった。
「驚いたな。ずっとああやって付けっ放しにしているんですか?」
「ヤダ、怖くて電源なんて切れないわ」
いや、むしろ逆じゃないのか。
「あ、適当に座って。お茶でも淹れるから」
佐々木さんはキッチンに消えた。
「おかまいなく……」
そう言いつつ、とりあえずパソコンの前に座ってみた。十七インチの大画面に、一匹の黒猫。毛の、一本一本まで鮮明に分かる程のアップだ。半分だけ開けられた目は、こちらを値踏みするかのようで、どうにも居心地が悪い。
僕はざっと室内を見回した。とてもスタイリッシュな部屋で、すっきりと片付いている。部屋の隅に、小さな祭壇のようなものがあった。手のひらサイズの骨壺らしき箱。花瓶に写真縦。なるほど、そういうことだったのか。
「この猫、佐々木さんの飼い猫だったんですね」
僕は、キッチンに向かって声をかけた。
「……十五歳だったの。それまで元気だったのに、突然。でも、後から考えれば思い当たるフシはたくさんあってね、毎日泣いてばかり。会社にも行けなくなっ……」
お湯の沸く音が、佐々木さんの声を消した。
僕は画面の猫に目を戻した。あれ? 気のせいか? 猫の目が、さっきより細くなっている。間近で見ようと顔を近づけた時だった。
にゅっと突き出てきた何かに、鼻の頭を押された。続いて、鋭い痛み。それが猫の前脚だと気づいた時には、僕はもう、パソコンの中に取り込まれていた。
マグカップを手に、佐々木さんが震えて立っていた。その足元に黒猫がすり寄っている。
「ああ、嘘じゃないのね。本当だったのね」
佐々木さんはマグをテーブルに置いて、猫を抱き上げ、愛おしそうに顔を近づけている。猫は、勝ち誇ったような目で僕を見た。
「ごめんねえ、鈴木くん。亡くなった猫を再生する方法っていうのを、愛猫家のサイトで見つけたのよ。写真をセットして百日念じて、後は身代わりを用意って書いてあったわけ。悪く思わないでね。じゃあね、鈴木くん」
佐々木さんは、電源ボタンに手を伸ばした。
(了)
「嘘じゃないわよ、鈴木くん。本当に、その猫、動いたのよ」
「へえ。それが本当なら、ぜひとも見てみたいですねえ」
僕は、その嘘にとびついた。
「あら、いいわよ。じゃあ、今晩にでもどう?」
そう言われて、僕は顔がにやけるのを止められなかった。
「喜んで」
僕の返事に、佐々木さんも優しく微笑した。
総務の佐々木さんは、僕より三年先輩の三十五歳。美人だし、聡明で後輩の面倒見も良い。彼女をねらっているという同僚の話は、何度も耳にした。かく言う僕もその一人だったが、どうせ無理だと諦めてもいた。
その佐々木さんが、半年前、急におかしくなった。仕事中もぼんやりすることが多くなって、ミスを連発した。いきなり泣きだしたかと思うと、今度は怒りだす。とにかく精神状態が不安定になった。そのうち会社を休むようになり、とうとう休職した。どうやら恋人と別れたようだと皆が噂した。
三か月程して戻って来た佐々木さんは、元気そうに見えたが、どこか影があった。やっぱり何か複雑な事情があるのだ。そう察した同僚たちは気を使って、彼女と距離を置くようになった。僕にやってきたチャンスだった。
別々に退社した僕たちは、佐々木さんの最寄り駅で待ち合わせた。
「よかった、来てくれて。来てくれないんじゃないかと思っていたのよ」
「まさか」
僕は心底驚いたふりをした。
「だって、パソコンの背景にしている写真の猫が動きだしたなんて話、普通信じないよね」
佐々木さんは俯いたままだ。
「……ほら、この頃みんな私のこと避けているでしょ。こんな話を聞いてもらえるの、鈴木くんだけなのよ」
僕は、心の中でガッツポーズをつくった。
佐々木さんの住まいは、駅から徒歩十五分の三階建ての低層マンションだった。リビングに通されて、驚いた。
中央に置かれたガラステーブルの上に、開いたままのノートパソコンが乗っていた。勿論、電源も入っている。画面の中で、香箱を組んだ黒猫が、黄色い目をこちらに向けていた。猫のことは口実だと思っていたから、まさか本当にパソコンが用意されているとは思わなかった。
「驚いたな。ずっとああやって付けっ放しにしているんですか?」
「ヤダ、怖くて電源なんて切れないわ」
いや、むしろ逆じゃないのか。
「あ、適当に座って。お茶でも淹れるから」
佐々木さんはキッチンに消えた。
「おかまいなく……」
そう言いつつ、とりあえずパソコンの前に座ってみた。十七インチの大画面に、一匹の黒猫。毛の、一本一本まで鮮明に分かる程のアップだ。半分だけ開けられた目は、こちらを値踏みするかのようで、どうにも居心地が悪い。
僕はざっと室内を見回した。とてもスタイリッシュな部屋で、すっきりと片付いている。部屋の隅に、小さな祭壇のようなものがあった。手のひらサイズの骨壺らしき箱。花瓶に写真縦。なるほど、そういうことだったのか。
「この猫、佐々木さんの飼い猫だったんですね」
僕は、キッチンに向かって声をかけた。
「……十五歳だったの。それまで元気だったのに、突然。でも、後から考えれば思い当たるフシはたくさんあってね、毎日泣いてばかり。会社にも行けなくなっ……」
お湯の沸く音が、佐々木さんの声を消した。
僕は画面の猫に目を戻した。あれ? 気のせいか? 猫の目が、さっきより細くなっている。間近で見ようと顔を近づけた時だった。
にゅっと突き出てきた何かに、鼻の頭を押された。続いて、鋭い痛み。それが猫の前脚だと気づいた時には、僕はもう、パソコンの中に取り込まれていた。
マグカップを手に、佐々木さんが震えて立っていた。その足元に黒猫がすり寄っている。
「ああ、嘘じゃないのね。本当だったのね」
佐々木さんはマグをテーブルに置いて、猫を抱き上げ、愛おしそうに顔を近づけている。猫は、勝ち誇ったような目で僕を見た。
「ごめんねえ、鈴木くん。亡くなった猫を再生する方法っていうのを、愛猫家のサイトで見つけたのよ。写真をセットして百日念じて、後は身代わりを用意って書いてあったわけ。悪く思わないでね。じゃあね、鈴木くん」
佐々木さんは、電源ボタンに手を伸ばした。
(了)