第6回「小説でもどうぞ」佳作 かなた/大汐いつき
第6回結果発表
課 題
恋
※応募数394編
「かなた」大汐いつき
男と女が出会い、ともに時を過ごし、別れた。
男は東へ向かい、女は西へ向かった。
もう二度と顔も見たくない。
男も女も、そう思っていたが、相手から離れれば離れるほど、相手に近づくことに、ふたりは気づかなかった。東の端が西の端で、西の端が東の端なのは道理だ。できるだけ相手から距離をおきたい。遠ければ遠いほどいい。その思いが、ふたりを遠ざけ、また近づけた。
男は、いくつも山をこえることで、距離をかせごうとした。山の頂上にたどり着くたびに、東の方角を見て、次にこえるべき山を探した。高い山もあれば低い山もあったが、大切なのはもちろん、高さではなく、今いるところからの遠さだった。あまりに遠すぎて山影が薄く見えるくらいが、次に目指すにはちょうどいい。悪天で視界が悪いときは、天候がよくなるまで、じっと待った。そうして、男は山から山へと移動をくり返した。めぼしい山が見つからないときは、しかたなく平地を東へ進んでいった。
女は、海をわたることにした。港で大きな船に乗り込んだ。海が穏やかな日には、甲板に出て、まだ見ぬ遠い土地に思いをめぐらせ、海が荒れた日には、客室の隅でうずくまった。船が町に寄港すると、西へ向かう別の船を探し、その船が寄港すれば、また別の船を探した。ときには直接西へ向かうことがかなわず、いったん北上したり南下したり、さらに運が悪ければ、東へ戻らざるを得ないことさえあったが、それほど問題にはならなかった。時間はたっぷりあった。船はゆるやかに、だが着実に、女をより遠くへ運んでいった。
男も女も、旅路のなかで、不意に相手の顔を思い出すことがあった。顔も見たくもないと思ったはずの、男の顔を。女の顔を。
出際に振り向いたときの顔を。
針仕事の最中に寝込んでしまったときの顔を。
猫に餌をやっているときの顔を。
おろしたての服でめかし込んだときの顔を。
どれも、はっきりと思い入れのある記憶とは言いがたい、何げない日常の断片にすぎなかった。それでも、ふたりにとって、わずらわしいのは確かだった。
別れた場所からまだ近すぎるのだろう。
ふたりはそう思った。ここは過去から近すぎる。男のところから、女のところから、まだ近すぎる。じゅうぶんに離れていないのだ。
きれいさっぱり忘れるには、遠くへ。もっと遠くへ行かなければならない。
そうして男と女がたどり着いたのは、ふたりが別れた場所からもっとも遠いところにある、同じ町だった。大きすぎず、小さすぎず、住み心地のよさそうな町に思えた。それより何より、あの男から、あの女から、いちばん遠く離れたところに、わたしはいる。おれはいる。ふたりは、その町に根をおろすことに決めた。
夏がきて、冬がきて、また夏と冬がきて、季節がめぐりめぐった。
男と女が新しい相手と結ばれたころには、おたがい、前の相手の顔を思い出すこともなくなっていた。とくに貧しくもなく、とくに裕福でもなく、ふたりは穏やかな日々を送った。子供ができ、孫ができ、老人になり、ふたりとも同じくらいの時期に、伴侶に先立たれた。しかし、周囲に恵まれていたので、孤独ではなかった。
男と女が再会したのは、男の孫と女の孫の挙式の席だった。
男も女も、当然、孫たちも、ほかの親族も、誰も、奇妙なめぐりあわせが起こっていることなど知り得なかった。
老齢となった男と女には、もはや当時の面影はなかった。
男は頭髪をほとんど失い、歩くには杖が必要だった。
女は背が縮み、目も耳も悪くなっていた。
どちらにも、もうろくの気配があった。孫たちから紹介を受けても、ふたりは状況をうまく飲み込めなかった。
周囲に促されるまま、男と女は歩み寄って、抱擁をかわした。
(了)
男は東へ向かい、女は西へ向かった。
もう二度と顔も見たくない。
男も女も、そう思っていたが、相手から離れれば離れるほど、相手に近づくことに、ふたりは気づかなかった。東の端が西の端で、西の端が東の端なのは道理だ。できるだけ相手から距離をおきたい。遠ければ遠いほどいい。その思いが、ふたりを遠ざけ、また近づけた。
男は、いくつも山をこえることで、距離をかせごうとした。山の頂上にたどり着くたびに、東の方角を見て、次にこえるべき山を探した。高い山もあれば低い山もあったが、大切なのはもちろん、高さではなく、今いるところからの遠さだった。あまりに遠すぎて山影が薄く見えるくらいが、次に目指すにはちょうどいい。悪天で視界が悪いときは、天候がよくなるまで、じっと待った。そうして、男は山から山へと移動をくり返した。めぼしい山が見つからないときは、しかたなく平地を東へ進んでいった。
女は、海をわたることにした。港で大きな船に乗り込んだ。海が穏やかな日には、甲板に出て、まだ見ぬ遠い土地に思いをめぐらせ、海が荒れた日には、客室の隅でうずくまった。船が町に寄港すると、西へ向かう別の船を探し、その船が寄港すれば、また別の船を探した。ときには直接西へ向かうことがかなわず、いったん北上したり南下したり、さらに運が悪ければ、東へ戻らざるを得ないことさえあったが、それほど問題にはならなかった。時間はたっぷりあった。船はゆるやかに、だが着実に、女をより遠くへ運んでいった。
男も女も、旅路のなかで、不意に相手の顔を思い出すことがあった。顔も見たくもないと思ったはずの、男の顔を。女の顔を。
出際に振り向いたときの顔を。
針仕事の最中に寝込んでしまったときの顔を。
猫に餌をやっているときの顔を。
おろしたての服でめかし込んだときの顔を。
どれも、はっきりと思い入れのある記憶とは言いがたい、何げない日常の断片にすぎなかった。それでも、ふたりにとって、わずらわしいのは確かだった。
別れた場所からまだ近すぎるのだろう。
ふたりはそう思った。ここは過去から近すぎる。男のところから、女のところから、まだ近すぎる。じゅうぶんに離れていないのだ。
きれいさっぱり忘れるには、遠くへ。もっと遠くへ行かなければならない。
そうして男と女がたどり着いたのは、ふたりが別れた場所からもっとも遠いところにある、同じ町だった。大きすぎず、小さすぎず、住み心地のよさそうな町に思えた。それより何より、あの男から、あの女から、いちばん遠く離れたところに、わたしはいる。おれはいる。ふたりは、その町に根をおろすことに決めた。
夏がきて、冬がきて、また夏と冬がきて、季節がめぐりめぐった。
男と女が新しい相手と結ばれたころには、おたがい、前の相手の顔を思い出すこともなくなっていた。とくに貧しくもなく、とくに裕福でもなく、ふたりは穏やかな日々を送った。子供ができ、孫ができ、老人になり、ふたりとも同じくらいの時期に、伴侶に先立たれた。しかし、周囲に恵まれていたので、孤独ではなかった。
男と女が再会したのは、男の孫と女の孫の挙式の席だった。
男も女も、当然、孫たちも、ほかの親族も、誰も、奇妙なめぐりあわせが起こっていることなど知り得なかった。
老齢となった男と女には、もはや当時の面影はなかった。
男は頭髪をほとんど失い、歩くには杖が必要だった。
女は背が縮み、目も耳も悪くなっていた。
どちらにも、もうろくの気配があった。孫たちから紹介を受けても、ふたりは状況をうまく飲み込めなかった。
周囲に促されるまま、男と女は歩み寄って、抱擁をかわした。
(了)