第4回「小説でもどうぞ」選外佳作 誰?/朝田優子
第4回結果発表
課 題
記憶
※応募数292編
選外佳作「誰?」朝田優子
「あれ、ここ整理してくれたのって誰?」
本棚の前に立った課長が素っ頓狂な声を上げた。数人がパソコンの画面からチラリと視線を向ける。私はデスクから立ち上がりおずおずと手をあげた。
「あの、私です」
一瞬の間のあと、課長は慌てて笑顔を作った。
「あ、ありがとう。散らかってたから気になってたんだ。助かったよ」
「いえ」
席に着き仕事の続きにとりかかると、課長が通りかかった女性社員を呼び止めたのを目の端に捉えた。
「吉野さん、あの人誰だっけ?」
「えっと、たしか田中さんですよ」
「ああ、田中さんね」
ヒソヒソ声のつもりのようだが、しっかり私の耳に届いていた。
この職場に派遣社員として入社し半月ほど経ったが、未だに私は名前すらまともに覚えられていない。
そもそも私は、いつどこにいても他人の記憶に残らない。日本中の人を平均化したような人間が私だ。物心ついた頃から自分が目立たない人間だという自覚はあったが、誰からも嫌われることもなければ好かれることもなかった。あまりにも存在感がないから、時々自分はこの世の人間じゃないのではないかとすら思うこともある。
定時に仕事を終えオフィスを出た。三駅先のアパートで一人暮らしをしているが、どうにも自炊する気になれず駅前の弁当屋に立ち寄った。客は一人もおらず、カウンターに若い男性店員がぼんやりと立っていた。白い帽子から覗く金髪が私を瞬時に緊張させる。この弁当屋はたまに利用していたが、初めて見る店員だ。
「いらっしゃいませ」
気だるげな、少し高めの声。
「あの、レディース弁当で」
ボソリと呟くと、
「それに入ってる煮物うまいっすよ」
馴れ馴れしい物言いに驚いたが、不思議と不快感はなかった。大きな瞳が子犬のような雰囲気を醸し出しているせいもあるかもしれない。
「あの、私これ好きなんです」
普段なら他人と必要以上の会話をしない私がつい口を開いてしまった。
「あ、知ってたんすね。常連さんっすか?」
「まぁ、たまに」
「まじすか、覚えときますよ」
じゃあちょっと待っててください、と言い残して彼はカウンターの奥に消えていった。私は呆然と椅子に腰掛けた。
『覚えときますよ』
彼の声が何度も頭の中でリフレインする。私を記憶に留めてくれる人がいるなんて。
五分ほどして彼が戻ってきた。胸元のネームプレートには山田と書かれている。暖かい弁当を受け取って店を出た。人生でほぼ初めての経験かもしれない。私を認識してくれた。彼の中に私が記憶された。
家と会社の往復だった淡白な日々に彩りが生まれた。私は毎晩会社帰りに弁当屋に寄った。しかし山田君にはなかなか会えなかった。バイトを掛け持ちしているのか、学生かもしれない。
会えない間、私は彼を何度も思い出した。華やかに見える彼と地味な私では不釣り合いだろうということは分かっているけれど、こんな私を覚えておくと彼は確かに言った。その一言は私を奮い立たせた。
そして一週間後、チャンスが訪れた。土曜日の昼過ぎ、山田君が一人でカウンターに立っている。私は何度も深呼吸してから店に入った。
「いらっしゃいませ」
間の抜けた声も記憶通りだ。
「あの、お久しぶりです」
「あ、すんません、誰でしたっけ?」
一瞬、何を言われたのか頭が理解するのを拒否した。その時、
「こんにちはぁ」
振り向くと若い女の客が山田君に手を振っている。
「あ、吉野さんいらっしゃい」
「ハンバーグ弁当まだ残ってる?」
彼と女が私を挟んで会話を続ける。
私は黙って店を出た。呼び止められることはなかった。弄ばれた。裏切られた。一週間想い続けていた気持ちのやり場をどこに持っていけば良いのだろう。
私がいつ何をどうしたって、きっと誰の記憶にも残らない。それならばいっそ。
私は踵を返し、ゆっくりと弁当屋に向かった。
(了)
本棚の前に立った課長が素っ頓狂な声を上げた。数人がパソコンの画面からチラリと視線を向ける。私はデスクから立ち上がりおずおずと手をあげた。
「あの、私です」
一瞬の間のあと、課長は慌てて笑顔を作った。
「あ、ありがとう。散らかってたから気になってたんだ。助かったよ」
「いえ」
席に着き仕事の続きにとりかかると、課長が通りかかった女性社員を呼び止めたのを目の端に捉えた。
「吉野さん、あの人誰だっけ?」
「えっと、たしか田中さんですよ」
「ああ、田中さんね」
ヒソヒソ声のつもりのようだが、しっかり私の耳に届いていた。
この職場に派遣社員として入社し半月ほど経ったが、未だに私は名前すらまともに覚えられていない。
そもそも私は、いつどこにいても他人の記憶に残らない。日本中の人を平均化したような人間が私だ。物心ついた頃から自分が目立たない人間だという自覚はあったが、誰からも嫌われることもなければ好かれることもなかった。あまりにも存在感がないから、時々自分はこの世の人間じゃないのではないかとすら思うこともある。
定時に仕事を終えオフィスを出た。三駅先のアパートで一人暮らしをしているが、どうにも自炊する気になれず駅前の弁当屋に立ち寄った。客は一人もおらず、カウンターに若い男性店員がぼんやりと立っていた。白い帽子から覗く金髪が私を瞬時に緊張させる。この弁当屋はたまに利用していたが、初めて見る店員だ。
「いらっしゃいませ」
気だるげな、少し高めの声。
「あの、レディース弁当で」
ボソリと呟くと、
「それに入ってる煮物うまいっすよ」
馴れ馴れしい物言いに驚いたが、不思議と不快感はなかった。大きな瞳が子犬のような雰囲気を醸し出しているせいもあるかもしれない。
「あの、私これ好きなんです」
普段なら他人と必要以上の会話をしない私がつい口を開いてしまった。
「あ、知ってたんすね。常連さんっすか?」
「まぁ、たまに」
「まじすか、覚えときますよ」
じゃあちょっと待っててください、と言い残して彼はカウンターの奥に消えていった。私は呆然と椅子に腰掛けた。
『覚えときますよ』
彼の声が何度も頭の中でリフレインする。私を記憶に留めてくれる人がいるなんて。
五分ほどして彼が戻ってきた。胸元のネームプレートには山田と書かれている。暖かい弁当を受け取って店を出た。人生でほぼ初めての経験かもしれない。私を認識してくれた。彼の中に私が記憶された。
家と会社の往復だった淡白な日々に彩りが生まれた。私は毎晩会社帰りに弁当屋に寄った。しかし山田君にはなかなか会えなかった。バイトを掛け持ちしているのか、学生かもしれない。
会えない間、私は彼を何度も思い出した。華やかに見える彼と地味な私では不釣り合いだろうということは分かっているけれど、こんな私を覚えておくと彼は確かに言った。その一言は私を奮い立たせた。
そして一週間後、チャンスが訪れた。土曜日の昼過ぎ、山田君が一人でカウンターに立っている。私は何度も深呼吸してから店に入った。
「いらっしゃいませ」
間の抜けた声も記憶通りだ。
「あの、お久しぶりです」
「あ、すんません、誰でしたっけ?」
一瞬、何を言われたのか頭が理解するのを拒否した。その時、
「こんにちはぁ」
振り向くと若い女の客が山田君に手を振っている。
「あ、吉野さんいらっしゃい」
「ハンバーグ弁当まだ残ってる?」
彼と女が私を挟んで会話を続ける。
私は黙って店を出た。呼び止められることはなかった。弄ばれた。裏切られた。一週間想い続けていた気持ちのやり場をどこに持っていけば良いのだろう。
私がいつ何をどうしたって、きっと誰の記憶にも残らない。それならばいっそ。
私は踵を返し、ゆっくりと弁当屋に向かった。
(了)