最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「母の思い出」安納千尋
母が死んだ。
自分は高卒で学はないくせに、私の学生時代はやたらと成績にうるさかった。私は、社会人になると、そそくさと家を出たが、結婚はまだかとか、早く孫の顔が見たいと、不満たらたらのメールが年に数回は届いていた。
適当に流すか、無視していたが一人倒れてからはあっけなかった。
私には、父の記憶はほとんどなく、私がまだ小さな頃に家を出て行ったことしか、母からは聞いていなかった。
身内は少なく、墓を立てても、ゆくゆくは管理する人もいなくなるかもしれず、小さな骨壺は、部屋の隅の棚にしまったままだった。
そんな時に知ったのが、最近話題のお見送りサービスだった。特殊な技術を使い、遺骨からある成分を抽出し、液状にしたものを生きている人の体内に入れると、故人の思い出を受け継げるというものだった。
ただ、新しい技術だし、何より注射で体に入れるなんて気持ちが悪い。開発した企業のサイトを見てみると、お試し体験なるものがあった。遺骨を送ると、飲みやすい粉末にしてくれ、好きな飲み物に混ぜればいいらしい。効果は数日で消えるとのこと。無料とはいかないが、このまま供養しないよりは安いしいいか、と思い切って頼んでみた。
ひと月後、届いたスティック状の一袋を口に入れ、冷蔵庫にあったスポーツドリンクで一気に流し込んだ。若干の苦味以外は何も感じず、今までの母娘のように、中身が薄かったんだろうと諦め、そのままベッドに横になった。
気が付くと周りが暗い中、トンネルの向こう側が見えた時のように、まあるく切り取られたような光が近づいてくる。
病院の一室。年老いた母がベッドで一人、風でカーテンが膨らんだ窓から外を眺めている。ほとんど白くなった髪は染めておらず、くすんだ顔色は年齢以上に老けて見えるが、表情は穏やかだった。
母が入院となった時は、私は準備のため急いで病院へ駆けつけたが、正直、仕事がこんな忙しい時に、とイライラしながら寝巻や下着など必要なものを持って行った。しばらくその生活も続きそうで、今後のことを一緒に決めないと、と思っていた矢先に逝ってしまった。悲しい、というより、治療が長引かず良かったな、という気持ちの方が大きかった。
うつらうつら靄の中を漂う中、違う光景が現れた。薄暗い台所で女が一人、お弁当箱に具材を詰めている。卵焼き、ウインナー、トマトなど彩りよく、白ご飯はぎっしりと。女の横顔に見覚えがある、昔の母だ。
私が高校生の頃、母は朝早くからお弁当と、その日の夕飯を作り仕事に出ていた。母の帰りは遅く、夜に私が洗い、朝に母が中身を詰めるお弁当箱のやり取りで私達はつながっていた。
情景はスローモーションで進み、辺りは柔らかい光に包まれている。
若い女性と小さな子供が公園にいる。親子だろうか。子供は小さなサンダルと麦わら帽子をかぶり水遊びをしている、それを見ながら女は笑っている。メイクや服装は少し昭和感が漂っているが、髪にも肌にも張りがあり美しかった。
がばっと上半身だけ起き上がる。どうやら私はいつの間にか寝てしまった様だった。
喉から胸に息が詰まって、座ったまましばらく動けなかった。いつから私は母との距離を感じるようになったのだろう。これが母の記憶なら、それぞれどんな思いだったのだろうか。思わず涙が頬を伝った。
たとえ短い間でも、私の中にいる母をしっかり弔おうと思った途端、目の前で、ぱちん、と何かが弾けたような音がした。
しわくちゃになった空スティックが床に落ちている。裏面には赤文字でこう書いてあった。
「ご注意:毎食後、三分の一つずつ分けて服用下さい。一気に飲まれますと、ごくまれに故人についての記憶を失うことがあります。」
風で膨らんだカーテンが窓辺で揺れていた。
(了)