最終回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「最後の言葉」獏太郎
仕事人としては出来る人らしいけど、家庭人としては最悪やで。
口には出さないが、しのぶが夫である和夫に対して思っている事である。しかしながら、比較的裕福な生活をさせてもらっているので、文句は言えない。
和夫は週末になると仕事から帰るなり、突然愛車にゴルフバッグを積み込み始める。この光景は、珍しいものではない。そして一言。
「明日はラウンドやから、朝ご飯は四時には食べるわ」
主婦には、休みはないんかいな……。和夫は言い終えると、さっさと風呂場へ向かう。そしてそそくさと寝てしまう。
毎晩夕飯を用意しているが、週末の和夫は帰って来たと思ったら鞄を置いて、着替えを始める時もある。
「これから接待で飲みに行くから、ご飯はいらんで」
電話の一本も、出来へんのかいな……。
いそいそと出ていく背中に茶碗を投げたろかと思う日が、どれだけあったことか。
ご飯を食べて「美味しい」とか、「ありがとう」など、労をねぎらう言葉は、一度もきいたことがない。そんな言葉を言ってくれるのは、五0代から始めたヘルパーとしてお世話をしている高齢者だけだ。
ゴルフとお酒が大好きな、ただのわがままな夫だ。ギャンブルに溺れる訳でもない、浮気をして帰って来ない訳ではない。ため息しか出ないが、何の解決にもならない。そういう人なのだから。しのぶは諦めの境地に入っていた。
幸い二人の息子は、真面目で優しさのある社会人になった。息子たちから、なんでそんな人と結婚したんや? と聞かれることもしばしばあった。そんな時は決まってこう言う。
「昔はクーリングオフっちゅー制度がなかったからや」
明日は和夫の誕生日だ。もう還暦かぁ。なんか、お祝いしようかな。そんなことを思いながら夕飯を準備していると、和夫が帰って来た。顔を見るなり、和夫は言った。
「もう還暦やから会社を早期退職してきた。明日からは好きなことやって生きるから頼むわな」
返す言葉が見つからない。退職金や年金などで生活は充分に出来る。だからと言って、妻である自分に一言の相談もなしに、こんな大事なことを決めてしまうなんて……。しのぶはひと月ほど、和夫と一言も言葉を交わさなかった。
そろそろ互いに八〇代にさしかかった頃に、残酷な現実と直面した。しきりに胃が痛いという和夫を病院へ連れて行くと、即入院と言われた。医師は、淡々と言った。
「ステージ4のすい臓がんです」
えっ、胃が痛いと言っているのに? なんで、すい臓なん? 状況が掴めないまま入院の手続きをした。がんやなんて、なんでやねんっ! 自宅に戻ったしのぶは、ダイニングテーブルの椅子を引いて、崩れるように座り込んだ。
入院から三日後、病院から連絡があった。取るものも取らず、慌てて病院へ急いだ。しのぶは和夫の顔を見る。震える右手が、和夫のほほに触れる。こんなにあったかいのに。和夫は五分前に、息を引き取っていた。
慌ただしく、通夜と告別式の準備が始まった。まだ実感がない。息子たちもそれぞれの家族を伴ってやって来てくれた。会社の役員でもないし、家族でそっと見送ろうということで、家族葬を選んだ。通夜と告別式に臨んでも、やはり実感がわかない。出棺の時間だ。火葬場まで一緒に行き、最後のお別れをした。もう、見られへんねんな。眠るような和夫の顔を、しのぶはじっと見続けた。火葬している間、一旦式場へと戻った。式場で精進落としの食事が用意されていたが、味は全く感じない。三時間後、小雨降る中、再び火葬場へと向かった。涙雨やで。遺影を胸に抱いて、そっと心の中で和夫に話しかける。当然、返事はない。火葬場で、骨となってしまった和夫と再会した。脚の骨って太いねんなぁ。ふと視線が行った。次の瞬間、思わず声が出た。
「あっ……!」
震える右手の人差し指で、和夫の骨を指さした。その場にいた全員がその先を見つめた。「ああっ!」声を出して驚いた。骨にうっすらと文字が浮かんでいる。
——ありがとう
しのぶは肩を上下にしながら、口元を押さえた。しばらくすると、震えが落ち着いてきた。ほほに、しずくが伝う。アホ。アホちゃうか。素直に言いや! などとつぶやきながら、しのぶは骨を拾った。
外へ出ると雨はすっかりやみ、うっすらと虹が見えた。
(了)