第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「憧れの役」広都友理
目覚まし時計のベルの音は開幕の合図。
疲れの残った顔でぐずぐず起きた私の役は小さな子供を持つ共働きの主婦だ。パンをトースターに放り込み、保育園に持って行くものをチェック、会社に何を着て行くか考えながら子供を起こす。
「俊太、起きて」
ぷっくり丸いほっぺたをつつく。
「ほらほらほら、早く早く、急いで急いで」
セリフはほぼこの繰り返し。走り回ってドアに肘をぶつけて「痛っ」と叫ぶが夫は自分の支度に忙しく、かなりの大きな声を出したのに気が付いていない。そういうところだよ、優しさが足りない、なんてケンカをふっかける余裕もない。
「行ってきます」
夫が出かけた。タイムリミットまで残り十分。急いで着替えて化粧をすると子供を抱えるようにして自転車に乗せる。
「お天気で良かった」
「ママ、いつもそう言うね」
全力で自転車をこげば汗が滲む。保育園が見えてくる。化粧が崩れたら困るわ、小さな声の独り言は、保育園に集まってくる私と同じ役の女性たち全員のつぶやきだ。子供を下ろすとじゃあねと三秒ほど見送って再び自転車で駅へ急ぐ。電車に乗ると髪を撫でつけママの顔から仕事の顔にチェンジ。
第二幕が始まる。子供も夫のことも忘れて昨日の仕事内容を反芻する。
「おはようございます」
一礼して挨拶、顔をあげれば「俊太くんのママ」から「佐藤さん」に呼び名も変わる。
「佐藤さん」と呼ばれる私はきちんとした言葉遣いをしてはきはきと喋り、背筋を伸ばしてさっさか歩く。
退出のタイムカードを押せば会社員の役はするりと剥がれ落ち、再び小さな子供を持つ共働きの主婦になって自転車をこぐ。
子供といっしょにでたらめな歌を歌う。前のカゴには自分のバッグ、後ろの席には子供、それだけでもういっぱいいっぱいなのにスーパーマーケットに寄って買い物をして、自転車を前に考える。世の中のお母さんに「自転車荷物詰め込み選手権」を実施したら、レベルの高い争いになるんじゃないか、私だってきっと上位入賞だと思えるぐらいに工夫を重ね、詰め込んで出発。転んだら元も子もないから慎重に、適度なスピードと安全運転を心がける。急ブレーキをかけたりしたら前かごのてっぺんに乗せた食パンが転がり落ちるかもしれない。荷物を積み込み過ぎた自転車は限りなく不安定だ。
自転車をしっかり止めて、バランスが崩れないよう気を付けながらそうっと降りると、前かごに積んだ荷物を下に置いた。それから子供の両脇に手を差し込んで「よいしょ」と抱きかかえるようにして降ろす。他人からどう見えるかなんてことは微塵も考えず、卵を割ることなく、すべての荷物を運ぶことだけに集中する。無事に玄関まで到着、これからはひたすら目の前のことをこなしていく。
「俊太、手を洗って」
「水で遊ばないの。洗面所がびしょびしょじゃない」
ガミガミガミガミ、一度言い始めたら止まらない。子供も自分の機嫌もどんどん悪くなっていく。帰宅した夫の顔を見たとたん、俊太はうわああんと泣いて、すがりつく。化粧もすっかり落ちてスエット姿の鬼婆と化した私をちらりと見て夫は「どうした? ママに怒られたのか? 」なんて子供の頭を撫でている。どう考えても私の方が損な役回りだ。
すべてが嫌になって、お風呂上がりにぷしゅりとビールの缶を開ける。今日もたくさんの役をやりました。何か賞をいただいてもいいくらいがんばった。どの役も捨てがたく、欲張った結果じゃないかと言われたらそれまでだけど。
生きている限り幕は開く。何度も何度も色々な役で、様々な登場人物が現れる。
これからどんな役が待っているだろう。姑と戦う嫁、反抗期の子供に悩む母、いろいろあるんだろうなあ。
たまには母親でもなく妻でもないただの女になって、甘い言葉に揺れてみたい。そういう役もかつてはあったのに、縁遠くなって久しい。ちょっとしたきっかけでその役は手に入るはずなのに。きらきら光る高価なものでなくていい、小さな花束でもコンビニのアイスでも構わない。ささやかな贈り物で私は歓声をあげて母親でも会社員でも妻でもないただの女になって笑うだろう。
その役ができる幕を開けるのはぐうぐう眠りこけている夫のはずだが、その幕を引く係であることをもう忘れてしまったのだろう。違う誰かの登場を夢見てもいいの? そんな意地悪の一つも言いたくなる。あるいはその疲れ果てている手をそっと握れば、違う幕が開くのかもしれない。
(了)