第78回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「裂け目」寺山恵
部活が終わってから、野々原が「マクが裂けたんですけど」と言いに来たとき一瞬身構えたのは、てっきり処女膜のことかと思ったからだったんだけど、別にそんなことはなかった。
行けばすぐわかった。体育館の舞台の緞帳のことだ。何か行事があるわけでもないので、いつもどおり幕は左右に開けっ放しになっていて、その左のほうの半ばが、真ん中から裂けてダラリとぶら下がっている。
こんなことはこの学校ではもう日常茶飯事なので、私は「何やったの?」と野々原に聞いた。
野々原は豆苗みたいにヒョロヒョロな黄緑色の髪をいじくりながら「別に何も」と言った。何もなわけ、ある?
まあどうせ、非常勤の私を頼ろうってのは、どうにか上手く誤魔化してほしいからでしかないのだ。私はため息をついて、舞台に寄った。
ジャージの膝をなかなか胸まで上げられなくて四苦八苦する私を尻目に、野々原は隣の階段を使っている。どうにか壇上に登って見てみると、二十センチくらい裂けていた。ハサミを使ったわけではなさそうだ。
「ぶら下がったか、引っ張ったかした?」
「だから、あたしは何もしてないって」
普段から感情を殺している野々原の声が、やや尖っている。面倒くさいな、と思った。
手芸部だって週イチのボランティアでやっているのに、わざわざ思春期の女子生徒の個人指導なんてしてらんないよという気持ちが強い。それでもこうして付き合ってあげているのは、野々原がこの荒れきった高校で、家庭科の授業をわりかし真面目に受けてくれているほうだからだ。
「生地が厚いからねえ」
縫い合わせるにしても針が通らんだろうと思って真面目に言ったのに、野々原と来たら、固い声で「直せるんですか、直せないんですか、どっちですか」などと言う。私は聞き返した。
「野々原は直してほしいの?」
「…………」
野々原は、むかし田舎で餌をやっていた野良猫みたいな顔をしている。不細工なハチワレで、大儀そうに開かれた薄目のふちは血が滲んだようなピンク色をしている。私を敵か家来か見定めようとする、嫌な目つきだった。
どっちかしかないのかよ、とうんざりしながら私は「ホチキスある?」と聞いた。
野々原は図書委員らしい。図書室のカウンター裏からポップ作成用の文房具を漁って、ホチキスと赤マジックを手に入れる。
この行ったり来たりについてくるくらいなのだから、意外と素直というか年相応な感じがする。ああ、単に私が信用されていないだけか。
野々原に端をつまんでもらいながら、私は裂け目をバチンバチンとホチキス留めした。自慢じゃないが、握力は六十近くある。
金具の部分に色を付ければ、まあまあ遠目にはそれとわからなくはなった。長く持つかどうかの責任までは持てないが。
出来を見て、野々原はなんとなくホッとしたようだった。「どうも」と軽く頭を下げる。
「ありがとうございますは?」
「アリガトウゴザイマス」
雑な感じが癇に障ったので突っ込むと、早口でそう言って、また頭を下げた。いちおう感謝されてはいるらしい。
私は肩をすくめて「どういたしまして」と言った。少し同情していた。
授業が授業として成立するほうが稀なこの学校で、ちょっと破れた幕一枚を気にかける感覚があるなら、さぞ学校生活やりづらいだろうと他人事のように思う。ナメた髪色と態度も、案外、自分を守るための擬態なのかもしれない。
私は無意味と思いながら軽口を叩いた。
「まっぷたつに裂けたら、聖書だったのにね」
「え?」
「聖書にねえ、そういうシーンがあんの。キリストが十字架にかかって死んだ時、神殿の聖なる幕が、ひとりでにバリバリーッと」
「……なんで?」
「さあ。神様と人間がチョクで話せるようにってことらしいけど」
野々原は皮肉っぽい笑い方をした。口の端が強張っている。「神様なんているわけないじゃん」
「そう?」
「えぇ? 伊吹センセーってそういう系なの?」
「教師だしね。いるとかいないとか主張して人と揉めたくないんだよ。つーか逆に、なんでいないって思うの?」
野々原は黙っている。悩んでいるというか、人に対してどう優位を保とうとしているか考え込んでいるような気がした。子どもなんだ。
いつかの野良猫は、煙草の吸い殻を拾い食いしたとかで死んでしまった。生きていて割りを食うのって大抵そういう層だよなあと思う。
例によって不細工で、知恵が回らなくて、生きるのに必死なふうに、野々原が笑う。「彼氏がさあ」とかすれた声を漏らす。
私はその肩越しになんとなく幕の裂け目を、ホチキスの痕を探す。あれだけ雑な補修でも、なにごとも無かったふうに装えることが、なんか嫌だ。
(了)